今年の10月30日から11月1日にかけて、佛教大学で、第49回「鷹陵祭(おうりょうさい):学園祭」が開催されました。テーマは「ぎゅっと、佛大」で、そのテーマの意味は「人が多く集まる鷹陵祭で、団体の模擬店や様々な企画等に参加することによって、普段接することの少ない人との距離が「ぎゅっと」近づくきっかけにします!!」と実行委員会のHPに書かれています。学生同士の触れ合いや、仲間意識を高める、といった意図があるのでしょう、今の大学生らしいテーマかと思います。 さて、この写真は、三十数年前の佛教大学の北グランド(現在の5号館・6号館・鹿渓館が建っている場所は昔グランドでした:北グランドと呼んでいました)の中央に設置された野外ステージ、そこで演奏している学生の音楽団体の様子です(当時、私のよくよく知っている学生達でしたので、私がカメラで撮影したのです)。 バックステージの図柄は、明治時代に活躍した印象派の画家、青木繁の「海の幸」をモチーフにしたものだと思われます。そして「16th 嵐の中での自己変革」というテーマが描かれています(写真では「嵐」の文字は隠れていますが当時在職していた私の記憶に、はっきりと残っています)。今年のテーマのように「友達とぎゅっと」というちょっと軽いけど温かいテーマと違い「自己変革」ですから、個々の学生に向かって厳しく主張しているのでしょう、しかも「嵐の中」ですよ。青木繁のどろどろとした作風のパネル画の上で「君たち、こんな大変な世の中でこそ、自己変革しなければいけないぞ!」とでも言っているようです。 第16回の鷹陵祭ですから、1982年(昭和57年)のことになります(49回から遡って計算してみました)。この年のヒット曲ベスト5(と売上枚数)は、以下のようなものでした。 1位「待つわ」あみん・101.8万枚 2位「セーラー服と機関銃」薬師丸ひろ子・83.5万枚 3位「聖母たちのララバイ」岩崎宏美・78.5万枚 4位「心の色」中村雅俊・69.7万枚 5位「北酒場」細川たかし・64.8万枚 (ダウンロード回数をヒット曲の指標としている現在と、えらい違いです、まだアナログレコードだったと思います) またその年の世相として、東北新幹線・上越新幹線開業、500円硬貨発行、ソニーが世界初のCDプレーヤー発売、テレホンカード使用開始、「森田一義アワー 笑っていいとも!」が放送開始・・・といった明るい話題もありましたが、社会情勢では、日航機、羽田沖墜落、ホテル・ニュージャパン火災、三越事件で前社長ら逮捕、ロッキード事件全日空ルートで同社幹部に執行猶予つき有罪判決・・・・と、暗い話題もありました(これらはインターネットで「1982年」を検索すれば、たくさんの記事がヒットして、簡単にその年の世相や事件等々の情報を得ることが出来ます、こんなことも三十数年前には考えられませんでした)。 そして、このテーマを設定した当時の学園祭実行委員会の学生からすれば、この混沌とした社会情勢や世相を「嵐」と呼ばずしてどうするか、あみんの「待つわ」に浮かれている世の中も、見方によっては「嵐」だと言える、そんな中で、自らを「変革」してこそ、未来が開けるのだ、という気概のようなものが表れています。 そんな意気揚々とした実行委員会の取り組みのさ中、教育学科の清水毅四郎先生(滋賀大学名誉教授で、現在、びわこ成蹊スポーツ大学特別招聘教授をされています)が、講義の中で、この学園祭を皮肉って、このテーマ、本当は「小春日和の中での自己満足」とするべきだな、と言われた、という話を私は聞いたのです(伝聞情報なので若干ニュアンスが違うかもしれません)。 このコメント、なんと言い得て妙な言い換え(シャレ、ユーモア)だったでしょう。そして、この話が、後日、実行委員会のメンバーにも伝わり、一同、苦笑いだった、ということもあって、私は強烈に、この「小春日和の中の~」の「裏テーマ」が印象に残っているのです。今年の「ぎゅっと」も、30年前の「自己変革」も、学生の心根は、そんなに大きく変わる(変わった)ものでもないのでは、と、ふっと思った次第です。 ちなみに「小春日和」というのは、11月初旬、ぼちぼち肌寒い季節を迎えようとしている中、時折、春のような温かい気候の日が出現する時のことを言うようで、冬の季語となっています。 (2015.11.18.FB投稿記事より転載)
この写真は古い絵葉書に掲載された金閣寺の画像です(著作権は切れていて、自由に使うことが出来ます)。昔は、中に人が入ることが出来たのですね。三島由紀夫の小説にあった放火事件は昭和25年ですから、焼ける前の姿でしょうね。...
この写真は、1967年、私が小学6年の時に、来年から入ることになっている地元の中学校の体育祭に見学へ行き、友人と撮ったものです。今から40年以上前のものです。ここに映っている左側は、メガネをかける前の私(まだ近視がそんなに進んでいなかった時代)、そして右側は友人のM君、その後も中学・高校と同じでした。大学は私は京都市内の私大、彼は大阪の商学部のある私大で、それぞれ別の道を歩みましたが、お互い長男だったこともあり、地元に残り、通学通勤で、たまに駅で会って電車内で世間話をしながら、友人関係は続きました。しかし3年前に、彼は職場で倒れ、そのまま意識が戻ることなく、病院のベッドの上で管に繋がれる状態(約1年半)となり、昨年の4月16日に帰らぬ人となってしまいました。振り返ってみて、彼との関係は、特別に仲の良い間柄ではなかったようにも思うし、そうかといって疎遠になることもなかったと思います。どの程度が友達と呼べるのか、それはわかりせんが、気心の知れた関係、虚飾も見栄も敵対もなく、それはそれは安心できる、やはり「友達」でした。 今日は1日遅れましたが彼の命日に線香をあげに、ご自宅へ伺いました。いまだに「太田君」と呼んでくれる彼の奥さんと昔の話をして、ひと時を過ごしました。
前にもこの主旨の話題を書いたことがありました。まだまだなかなかすべてのアナログ写真をデジタル化は出来ていないのですが、このところ夏期休暇などもあって、時間が比較的取れるので、現在は、ポジフィルムをデジタル化しています(これがまた時間がめちゃくちゃかかるんです!)。...
本日は、園部町公民館で丹波史談会の6月例会がありまして、昼前に出発し、時間があったので南丹市文化博物館で開催されている特別展「写真でふりかえる南丹市」を見てきました。...
昨年末くらいから一念発起(大げさですが)して、アナログ写真をデータ化することにしました。既にプリントされてアルバムに貼り付けられて、見ようと思えば見られるのですが、大学卒業した頃から、格段に撮影枚数も増えてきました。差し込むだけのアルバムも相当数になりました。この現状では、どのアルバムには、どんな写真があるのかさっぱり見当がつきません。背表紙にメモ程度の書き込みもしているのですが、けっきょく物置の隅に追いやられたり、古い本棚の奥のほうに仕舞われている現状では、再びその写真(つまり撮影時点での風景、その中に居る被写体の喜びやら気分・・・・大げさですが)が世に出ることはなくなることになります。 今から10年ほど前からデジタルカメラが主流となり、何かイベントがあればパシャパシャと気軽に撮影するようになりました。もともとカメラ好き、写真好きなので、デジカメ画像もパソコンの外付けHDDにたんまり保存されています。その容量は現在、約200GBになっています。適当に撮影したクズのような写真もありますが、やはりその時間その場所で意図的、無意味を問わず撮影された画像には、何か伝わるものがあります。ちなみにこれら10年に亘る画像の数々は、もしパソコンやディスクの不具合によって消失しまうと取り返しがつかない危険があることから、定期的にソフトを使って別のHDDにコピーしています(この複写のアイデアは自分でもなかなかのものだと思っておりまして、第一世代のHDDが1年前に動かなくなったのですがコピーをしていたおかげで救われたのですから)。 アナログ写真のデジタル化は、昨年末あたりからスタートしましたが、なかなかはかどりません。身の回りの忙しさもありますし、スキャンするセッティング、スキャンする時間も相当かかります。そしてデジタル化した画像データをどのように整理して管理していくかが問題です。デジカメの画像なら撮影日時などは自動的に記録されていますが、アナログ写真は、何かメモを書いていない限りいつ頃のものかわかりません。風景やメンバーの様子でほぼ何年頃、という見当はつきますが、何月何日までは分かりません(昔、フィルムに年月日が映り込むカメラがあって、じゃまな感じがしていましたが、もっとこの機能を使っていればよかったのに、と思います)。 現時点で所有しているアルバムやアナログ写真全体の2割程度の進捗状況です。 この写真は、デジタル化した中で一番古い写真です。今から40年前にあった万博に行った際のもので、中学2年生時だったかと(自分でいうのもなんですが中学生やのに「おっさん」やなぁ)。