My Favorite Songs 3

私の好きなこの1曲 (★た行~)★あ行~ ★さ行~ ★は行~ ★ま行~ 

★た行

ダリダ&アラン・ドロン「あまい囁き」

 1973年に発表されたフランス映画界の当代きっての人気男優アラン・ドロン(当時37歳)とイタリア生まれの熟年歌手ダリダ(当時40歳)との作品。「君だけが僕の永遠の真実のあかし・・・・(男)」「また口先だけ、言葉だけなのね・・・(女)」といった男(ドロン)と女(ダリダ)の甘い会話(もちろんフランス語)で構成された異色の曲だ。このヒットにあやかろうと、ドロン役に細川俊之、ダリダ役に中村晃子(「虹色の湖」懐かし~い!!)で日本語版が出されたようだが、不発だったようだ。甘い会話ではフランス語に勝るものはない、ということだろう。
 僕の大学生時代、近くに「ピエール」という喫茶店があった。平屋で白いペンキで塗装された洋館風の建物で、確かフランス国旗がいつも立てかけてあった。店内は洒落たテーブルとイスが、そこそこの空間に配置され、やや奥まったところに、少しゴージャスな感じの独立したイスがひとつ、まるで常にライトを照らされているように置かれていた。このイスは、聞くところによるとアラン・ドロンが来日した折にこの店に立ち寄り、座ったイスだ、ということであった(真偽のほどは不明だが近くには金閣寺や竜安寺、仁和寺などがあり、外国人の観光者が立ち寄ってもおかしくない土地柄ではある)。そのイスは、この店でお茶を飲む為ではなく、ドロンの座った余韻を確かめるために、ドロンのファンの為に用意されている、ということであった。その後何年かして、ここの喫茶店は、建物はそのままで「からふね屋」というコーヒーのチェーン店に名前を変え、そして現在は、その跡形もないコンビニエンス・ストア(ローソン)になり、さらに牛丼チェーン(なか卯)になっている。ドロンご縁の場所も様変わりしたものである。

チャビー・チェッカー 「レッツ・ツイスト・アゲイン」

 ドラムスのリズムに合わせ「Come on Everybody~」の掛け声で始まる軽快なロックンロール。1964年8月にビルボード8位を記録したチャビー・チェッカーのヒット曲。チャビー・チェッカーは他にも「ザ・ツイスト」「ツイスティン・U.S.A.」「スロー・ツイスト」「 ツイスト・イット・アップ」とツイストにこだわり続けた。
 日本ではオールディーズのバンドなどで定番の曲である。僕がこの曲を演奏し始めたのも、そういった日本のオールディーズバンドのコンピレーション・アルバムを聴いてからである。このアルバムには、あの「キッスは目にして」のコニーさんのバンドもあったことを思い出す。

チャック・ベリー「ジョニ-・B・グッド」

 ロックンロールの帝王、キング・オブ・ロックンロールと称されるチャック・ベリーは、アメリカの黒人音楽であるブルースと白人音楽のカントリーの融合から50年代に生まれたロックン・ロールの生みの親である。チャック・ベリーの出現によってロックン・ロールの本当の歴史が始まったのである。
 チャック・ベリーは1926年米ミズーリ州セントルイスに生まれる。ミュージシャンとしてのデビューは比較的遅く、29歳の時にブルース界の大御所マディ・ウォーターズの紹介でチェス・レーベルと契約、「メイベリーン」で念願のレコード・デビューを果たす(1955年・・・僕が生まれた年だ!!)。
 彼はデビュー以降、「School Day」「Rock 'n Roll Music」「Sweet Little Sixteen」「Carol」などの大ヒットを連発し、一躍スターダムにのし上がるのである。ところが、当時はまだ黒人差別が露骨に存在していた時代である。「マン法(ザ・ホワイト・スレイブ・トラフィック・アクトの略称)」という、チャック・ベリーのようなアーティストを狙い打ちする法律が適用され(14歳のネイティブ・アメリカンの少女をテキサス州から連れだし、その後のコンサート・ツアーで全米中を連れ回し、売春行為を強要したという)、1959年に逮捕、懲役5年の刑を言い渡されたのである(この法律は、「売春など不道徳な目的のために女性を連れだし州境を越えることを禁じる」というもの)。いまどきの音楽界なら、熱狂的なファンがグルーピーと呼ばれ、ミュージシャンとの関係を求めるのも当たり前、行く先々への追っかけなんか当たり前の時代である。いかに当時の黒人ミュージシャンへのやっかみが大きかったかがわかるのである。が、それにしても犯罪行為であったことは確かなようなので、これを正当化するものではないことも事実なのだが・・・。
 それ以降、チャック・ベリーは表舞台からは遠ざかっていくのであるが、60歳の誕生日を迎え、ストーンズのキース・リチャーズは、彼の為にコンサートを企画した。それはロックンロールの申し子、チルドレン達の恩返し、という趣だったのだろう。そのコンサートの模様を映画化し、それが大ヒットし、再び脚光をあびることとなったのである。
 「ジョニ-・B・グッド」はロックンロールのスタンダード曲で、この曲をよく知らない、という人でも、映画「バック・ツー・ザ・フューチャー」で主人公のマーティが、怪我をしたバンドマンの代わりに、ギターを持ってバンドに飛び入り参加し歌った曲、と言えば大抵の人は「ああ、あの曲・・・」となるだろう(その曲の後半部分はヘビーメタルっぽい弾き方をして会場がしらけるオチまでつくが)。そしてかのマーティ役のマイケル・J・フォックスが舞台の上でギターをかかえて腰を低くして演奏するスタイルは「ダック・ウォーク」と言われ、チャック・ベリーの代名詞となっている。またなんといってもイントロのギターの繰り返し部分は有名だ。この部分をコピーしたギタリストは数知れず、エレキギターの入門曲であり、これほど多くのロック・ミュージシャンがカバーしている曲もないだろう。1958年に全米で8位となっている。
 1989年、アメリカ航空宇宙局NASAでは、太陽系外への人類のメッセージを伝える目的で、ネプチューン計画を実行した。その計画を進めるボイジャー2号の船体には、バッハの曲とともにチャック・ベリーの「ジョニ-・B・グッド」が積み込まれたのだという。人類を代表する音楽大使は、いまも宇宙のどこかを彷徨っているのか、それとも・・・・。

チェイス「黒い炎 GET IT ON 」

 1971年、全米24位になった。チェイスはブラッド・スゥェット&ティアーズ(血と汗と涙)、シカゴなどと同じジャンルになるのだろうか、それらを総称してブラス・ロックと呼ばれていた。つまりブラス(ホーン)・サウンドを存分に取り入れたロックということだ。BS&Tやシカゴは、ブラスがメインになったアップテンポな曲以外にも、バラードやブルースなどの幅広い楽曲が知られているが、このチェイスに関しては、この曲が代表作。トランペットの追っかけ、息もつかさぬテンポのよさ、また全体の構成がボーカル部分とホーン部分でうまくかみ合った作品といえる。これがデビュー作のようだが、これ以降のヒットをあまり聞かない。確か、飛行機事故で全員が亡くなったのではなかったか。
 このチェイスの「黒い炎」をカバー曲として取り上げ、シングルカットまでしたのは日本のTOPSという関西出身のバンドだった。カバー曲ばかりを集めた『ビークル』というアルバムに「ゲット・バック」「シュガー・ベイビー・ラブ」などとともに入っている(1987年)。このカバーは日本語で歌われており、その訳詞をしたのは爆風スランプのサンプラザ中野というクレジットがある。
「くさった瞳の若者よ、情熱の中で太陽をつかめ~」といった、なんとも勇ましい内容だ。TOPSは、もともと京都を拠点にして活動していたソウル・バンドのITACHI(いたち)のボーカルの三井昌弘がブラス・セクションをメンバーに入れて、またメジャーを志向して作ったバンドである。ITACHIは実物をよく京都市内のライブハウスで見たものである(結構僕は好きなバンドだった、当時ベースにバーベキュー和佐田がいて後に爆風スランプへ移籍する)。TOPSは後に山際淳子がメインボーカルとして加入し、三井はマネージャーになった、という悲惨?な経過をたどる。サディスティック・ミカ・バンドのカバー曲「タイムマシーンにお願い」をヒットさせてメジャーになった。現在は活動しているのだろうか、よく知らない。

デオダート 「ツァラトゥストラはかく語りき」

 クラシック関連の曲。この曲はリヒャルト・シュトラウスの同名タイトルをジャズ風(というのかフュージョン)にアレンジしている。基本の旋律をモチーフに、延々とアドリブ演奏が続くのが印象的な曲で、SF映画「2001年宇宙の旅」に使われたことで有名になった。デオダートは、ブラジル人のアレンジャーで、他にも「青きドナウの流れ」などもアレンジしている。
 この曲は映画音楽に使われたことでもわかるように、何かを強く主張しているような、かつ何かを予感させるような曲だ(プロローグとかにぴったり)。タイトルからして哲学的なイメージがあるが、メロディが壮大であり、メリハリのある旋律が繰り返される。運動会あるいはオリンピックなどの開会式におけるファンファーレ的な曲とも言える。そう思うのは、かつて僕が高校生のときにあこがれていた(こういうエンターテイナーになってみたい、という意味での)エルビス・プレスリーが、コンサートの舞台に登場する際に、幕前にこの曲が使われていたからである。これからすごいことが始まるよ、すごい人が登場するんだよ、とでも言いたげな雰囲気を出していたのが、この「ツァラトゥストラはかく語りき」だった。もちろん、この時のアレンジはデオダートのものではなく、よりオリジナルのクラシックに近いものであった。その後、この曲は、いろいろなアーティストのコンサートや演劇などでもよく耳にした。

ディオンヌ・ワーウィック「ハート・ブレイカー」

 ディオンヌ・ワーウィックは1940年生まれというから今ではもう還暦を過ぎたお婆さんという年齢になる。大ヒットからは遠ざかっているものの、今も音楽活動は続けているらしい。数年前にも来日している。デビュー当時(1963年~)、作曲家バート・バカラックの秘蔵っ子と言われ、文字通り、その作曲による「サンホセへの道」「恋にさよなら」「WALK ON BY」「小さな願い」などたくさんのヒットに恵まれている。これらの曲は日本でも馴染みが深い(ちょうど僕は中学生の時代で軽快なメロディでとても印象に残っている)。その後、1970年代に入り、作詞家のハル・デイビットとバカラックが仲たがいし、ディオンヌを巻き込んでの三つ巴の訴訟合戦になったという(この時期は歌手としてはヒットに恵まれず不遇な時期となった)。そして1979年にはレコード会社をアリスタに変え、ビージーズのバリー・ギブのプロデュース(および作曲)によりアメリカ以上に日本で大ヒットしたのがこの「ハート・ブレイカー」である。
 「ハート・ブレイカー」というタイトルの曲はグランド・ファンク・レイルロードが有名かもしれない。しかしディオンヌの曲はハードロックではなく、とても美しいバラードである。はじめにストリング(シンセサイザー)の目一杯のイントロが入る。このメロディが既にサビ的なコクのあるメロディになっている。そしてすっと雰囲気が変わりディオンヌのボーカルが入る。このイントロからしたら、もっと強く主張するようなボーカルの予感があるのだが、それを裏切り、なにげなく歌が始まるのである。このギャップがまた心地よい。そして野太い声量のディオンヌのしっかりとした歌が変わることなく続き、そしてまたイントロのストリングスのメロディが絡まっていく。このあたりのアレンジは、日本の歌謡曲的という感じがしないでもないが、やはりビージーズの作曲であるところの洗練されたメロディラインが素晴らしい。琴線に触れる、という表現がいいのか、とにかく何度聴いても飽きない曲である。
 この「ハート・ブレイカー」がヒットしていた時期は、ちょうど就職したての頃だった。ラジオではじめてこの曲を聴き、これは名曲だ、と感激し、シングルレコード(もちろんアナログ)を新譜で買った。この曲を含めて、好きなシングルをカセットテープに録音し、ベスト・セレクション(あるいはマイ・ベスト)というタイトルを付けたテープをよく作ったものである。「ハート・ブレイカー」はもちろんトリ(一番最後)に、しかもテープが終わる部分を計算し、その前の曲を短くカットしてでも調整して作っていた。いまのCD→MDだったらそんな調整は簡単なのだが、アナログはけっこう大変だった(けどそれも楽しい作業でもあった)。
 ちなみに1983年になって、ふたたびバート・バカラックとコンビを組み、映画音楽を手がけ、翌年、スティービー・ワンダー、グラディス・ナイト、エルトン・ジョンとの共演作「愛のハーモニー」が全米ナンバーワンとなった。以後、バート・バカラックとは1960年代に戻ったかのような蜜月時代が続くこととなる。ヨカッタ、ヨカッタ。

T・レックス「ゲット・イット・オン」

 T・レックスの前身は1967年結成のテラノザウルス・レックスいうバンドで、風変わりなフォーク調の曲を作っていたらしい。その後、リーダーのマーク・ボランがエレクトリックサウンドに変更し、1970年、その頭文字の「T」・レックスとしたようだ。T・レックスの音楽は、デビッド・ボウイ等とともにグラム・ロックというジャンルで呼ばれていた。71年に「電気の武者」というアルバムを発表し、その中にこの「ゲット・イット・オン」が収録されている。ギターをミュートしたブギ―のリズムに、ベース、ドラムが重なっていくイントロは印象的だ。またブギ―というのかロックンロールというのか、サイド・ギターの~・チャチャッ、~・チャチャッ~、という小刻みな裏打ちが、ノリの良さを出している。この軽いアレンジは、簡単そうでなかなか、その味を出すのは困難だと思う。この曲には、バンドの演奏とともに、数人の踊り子がお似合いだ。ショートカットの金髪、バストが強調されたピチピチの無地のシャツとタイトなパンツで、一人ずつ円柱の踊り台に乗る、というシチュエーション。確か古い外国の音楽番組のスタジオで、こんな場面を見た記憶がある。
 数年前、タモリの司会をしている音楽TV番組に、サザンの桑田圭佑が出ていた。「東京」と「ロックンロール・ヒーロー」の2曲をフルコーラスで歌っていた。さすが大物シンガーだ(僕と同い年)。「ロックン~」の方は、コカコーラのCMで流れていてヒットしている。CMではサビの部分だけなのだが、この番組でフルで聴いて、全体として、この「ゲット・イット・オン」に良く似ていると思った。メロディも少し、そしてブギ―の裏打ちのアレンジはそっくりだ。世の中には似たような曲がいっぱいあるものだ。

デイブ・ディ・グループ「キサナドゥーの伝説」

 以前NHKの昼の番組でなつメロ特集番組があった。黛ジュン(天使の誘惑)とか中村晃子(虹色の湖)などの他に、グループサウンズの特集のようなコーナーがあり、もとジャガーズのボーカル岡本信が「君に会いたい」を歌っていた。このジャガーズは他にも海外のカバー曲の日本語バージョンなどでもヒット曲がある。「オーケイ!」と、この「キサナドゥの伝説」だ。「~オー愛に生きて死のう~」という一節から始まり曲間に効果音が入る構成はオリジナル曲とほぼ同じである。当時、僕は小学生~中学生くらいのことだったのでカバー曲という認識はまったくなかった。オリジナル曲だと思っていた。
 デイブ・ディ・グループはイギリスの5人編成のバンドでこの曲も全英でトップヒットとなったようだ。英国では「DAVE DEE DOZY BEAKY MICK AND TICH」という5人の名前を連ねたのが正式なグループ名だったようだが、日本のプロモーターか、レコード会社の意向か、面倒くさいので、最初の名前だけ残して「~グループ」としてしまったようだ。さらに僕らはジャガーズのヒットでも印象深い「キサナドゥー」という言葉も原曲名が「The Legend Of Xanadu」となっていて本当は「ザナドゥー」と発音するのが正しい。オリビア・ニュートンジョンのヒット曲は確かに「ザナドゥー」だ。これも当時のおおらかさが出ているエピソードである。

 

ディープ・パープル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」

 日本語直訳ロックの王様(ミュージシャン)が「湖上の煙」というタイトルで歌っている。ハード・ロックの古典的名作と称されている。この曲のイントロは、きっとロックになじみのない人でも、どこかで聴いたことのあるフレーズであろう。また王様は全曲をコピーしているが、このイントロは、ディープ・パープルを表わすための最も簡単なメロディである。
 1968年に前衛ロック・バンドとしてデビュー。70年から74年にかけて全盛期を迎える。この曲以外にも「ハイウェイ・スター」「ブラック・ナイト」などがヒットしている。ギターのリッチー・ブラックモア、キーボードのジョン・ロードの掛け合いが人気だった。そしてこのバンドがいまだに存在感のあるバンドである理由は、度重なるメンバー・チェンジにより、脱退したメンバーがビッグになって、ディープ・パープル・ファミリーを形成しているところにある。有名なバンドを少し挙げてみても、レインボー、イアン・ギラン・バンド、ホワイト・スネイク、さらにその次の世代としてディオ、ブラック・サバス等々、とても多いのである。

 


 1976年の「8・8ロック・ディ」の最優秀バンド、沖縄出身のハード・ロック・バンド、紫(MURASAKI)は、その名前のとおり、ディープ・パープルのコピー・バンドであった。しかも、その卓越したテクニックとオリジナリティは、ディープ・パープルを超えると言われていた。「8・8」での優勝後は、プロデビューして、アルバムが何作かある。
 僕は「8・8」の何年かのステージだったか忘れたが、実際の紫を見たことがある(過去の優勝バンドとしてゲスト出演していたものだと思われる)。当時の主流だったこてこてのブルースバンドやR&Bバンドの中にあって、紫の洗練されたステージは、とてもカッコよかった。

ドゥービー・ブラザーズ「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」

 1970年代のアメリカのウェスト・コーストを代表するバンドだ。ロスアンゼルスを中心としたイーグルスに対して、サンフランシスコを中心に活動していた。この「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」は1972年のヒット曲。アコースティックギターの6弦を開放で弾き鳴らしつつ、Eのハイコードの軽快なカッティングのイントロが印象的だ。
 この曲をはじめて聴いたのはオリジナル曲ではなかった。よく話題にする「8・8ロックディ」のコンサートで、アマチュアバンド(ナッツベリー・ファーム)が演奏していたのを聴いた。やはりイントロのカッティングがカッコイイな~、と思った。そしてさびの部分「oh~ listen to the music」のハモリもカッコよかった。その後、本物のドゥービー版を聴いてますますいい曲だと思った。2コーラス目のAメロが少し変化しているところもよい。そして、音楽をやっているものにとっても、何かすごくハッピーになる歌詞内容ではないか。
 実はその後、たぶん1980年ころだろう。大学の軽音楽部の学内のコンサートがあった。そこでもこの「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」を演奏していた(アンコールに応えての全員登場しての演奏だった)。そしてコーラスになんかソウルフルなボーカルが絡んでいるのが聴こえてきた。皆が「oh ~listen to the music」と歌っている裏で「get you get you oh ga ga ga ga~」とかなんとか。うしろの方にいる、あ、あの小さな男子学生か。えらいノリいいな、歌うまそうやし。と思って見ていた。彼こそ、後にアメリカでのメジャーデビューを実現した元LOUDNES(ヘビィメタルでは超有名なバンド)のボーカル、二井原実君であった。その後の活躍は知る人ぞ知るものだ。

ドゥービー・ブラザーズ「チャイナ・グローヴ」

 「チャイナ・グローヴ」は、ドゥービー・ブラザーズの3枚目のアルバム「ザ・キャプテン&ミー」に収録されていてヒットした。イントロのギターで始まるフレーズは有名だ。
 ドゥービー・ブラザーズの前身はPUD(パッド?)という3人編成のバンドだったようだ。それが1969年の頃。その後4人に増え、1970年にドゥービー・ブラザーズと改称しデビューを果たす。「ドゥービー」とはマリファナ・ジョイントのことで、デビュー当初は、ファンの質もあまりよくなかったという。その後ツインドラムスの編成となり大ヒット「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」で全米ロックシーンで知られるところとなった。この「チャイナ・クローヴ」がヒットした1974年頃、あの有名なフレーズが、大学生のバンド等でさかんにコピーされていたように記憶する。それだけインパクトのある曲だった。

TOTO「ロザーナ」

 男性の場合、小用をする際、便器の斜め下に記された「TOTO」の文字を毎日(というのか、いたるところで)必ず見ている(よくよく見ていると「inax」などの場合もあるが)。大正6年に創立された、トイレ・バス・キッチンを主な営業品目としている「東陶機器株式会社(本社・北九州市)」のロゴである。このロゴをアメリカのアーティストのサポートメンバーとして来日したミュージシャンが見て、「どこの便器にも記されている、きっと有名な名前に違いない」と思い、帰国して新しいバンドの名前を「TOTO」と命名した。これが、TOTOの名前に関する噂がある。
 僕はこの噂をかなり以前に聞いていたので、てっきりそうだと思っていた。ところが、解説書などで調べていくと、その噂も怪しいらしい。らしい、というのは、この命名の由来が、公的にはどこにも発表されていないし、メンバーもあえて公表を避けている節があるからだ。なのでまことしやかに噂となっているのだろう。この①便器命名説(?)の他に、②メンバーのボビー・キンボールの正式な名字「Toteaux」を単純化したもの、という説。③「オズの魔法使い」に登場する犬の名前からインスピレイションを受けた、という説。④ラテン語の「すべて、全部」から取ったと言う説。などいろいろある(②と③が有力らしい)。
 もともとメンバーはスタジオ・ミュージシャン(ボズ・スキャッグスのセッションが契機)の集まりである。1978年に「宇宙の騎士」でデビュー。サウンド的には、ハードロック、プログレッシブロック、AORが織り交ざった、腕達者なスタジオミュージシャンの集まりという感じである(このTOTOの楽曲のクオリティの高さには定評があり、ボストンなどと同様に産業ロックと呼ばれている)。そして1982年、アルバム「TOTOⅣ~聖なる剣」を発表。このアルバムが大ヒット、グラミー賞の主要7部門で最優秀賞を獲得。このアルバムからのシングルカットが「ロザーナ」である。ブラスを随所に効かせたマニアックなアレンジ、なのに耳障りの良いサウンド。ボーカルのメリハリの効いた声。総ての楽器が完璧にこなされている。メンバーチェンジを繰り返したTOTOが、最高のメンバーで完成させたアルバム「聖なる剣」を代表する秀曲。

 

ドーン「ノックは3回」

 ドーンというグループがどういう経歴を持っていたのか知らないが、この曲は結構ヒットした。曲中にノックをする表現として打楽器でブレイクするところが印象的(コン・コン・コン)。1971年のヒット曲。
 高校時代、エレキ・ギターを弾くようになって、サックスを吹いている吹奏楽部の友人(女の子)と何か合わせよう、ということになった。何曲かギターを伴奏に吹いてもらった。その後、二人だけではおもしろくないので、ベースとドラムスを入れ、学園祭で演奏しようということになった。そのときに取り上げた1曲がこの曲だった。歌なしで、サックスだけのメロディなので、今から思うとダサい演奏だった。けれども、このとき、楽器にはキーというものがある(アルトサックスは確かB♭)ことが分かったり、出来るだけオリジナルな演奏となるよう、ベースだけは、ドーンの楽譜どおりに弾いてもらったり、いろいろ勉強になった。
 ドーンはその後、「幸せの黄色いリボン」など何曲か出していた。どれも、牧歌的というか、楽しい感じの曲ばかりであった。今の時代から見れば、パッとしないものだが、あらためて聴いたりすれば、懐かしい曲だ。

★な行

1910フルーツガムカンパニー「サイモン・セッズ」

 1970年代の前、アメリカのブッダレーベルのバンドだ。陽気な曲調は、バブルガム(風船ガム)サウンドと呼ばれ、このバンド名も「フルーツガム会社」というものだ。キーボード(オルガン)主体の演奏にボーカルとコーラスの掛け合い、追っかけが特色で、少し幼児っぽい作品だが、結構ヒットした。そういう曲が、高度経済成長の時代と合っていたのだろう。なにしろ「バブル」なのだ。このバンドは、その後に「トレイン」という、ちょっと暗い目の曲を出し、日本でヒットしているが、このヒットは日本だけのものだったようだ。

ナンシー・シナトラ「YOU ONLY LIVE TWICE」

 ショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンド「007は二度死ぬ」のテーマソングだ。この映画は日本が舞台になっていた。そしてボンド・ガールには、当時の第一線の女優、浜三枝が選ばれた。また共演者に丹波哲郎なども出ていた。当時、人気スポーツカーのトヨタ2000GTを海中へ沈めたことでも話題になった。僕はこの映画を封切りで見た。小学生だったと記憶するが、3つ年上のいとことその友人に連れていってもらったのである。地元には大きな映画館は無いので、汽車(当時は電化されていなかった)に乗って京都市内にある(たぶん京極東宝の)映画館で見た。この映画は、その後テレビでも何回も放送されているので、今の目で見れば、みえみえの特撮映像がかなり入っていることが分かる。が、当時、小学生の目で見たこの映画は、すべてが本物だという受け止め方をしていた。「やっぱり外国映画は違うな・・・」「(瀬戸内海だと思われるが)海の中にこんな秘密基地を造って撮影しとるんや・・・」等々。ストーリーは、一度は殺された、とされたボンドが、ふたたび日本人に変装して悪の基地を破壊する、という単純なもので、細かい設定は別として、小学生の僕にもなんとか理解できるものだった。そしてなにより僕の鼓動を高くしたのは、最後にボンドと浜三枝(劇中の名はキッシー、変な名前!)が、海中の基地を爆破し、ゴムボートで脱出し、二人だけの海の上で、浜三枝は白い水着姿(こういうシチュエーションはすごくリアルに憶えているものである)で、ボンドとするキスシーンである。小学生の僕は「キスっちゅうのは、こんなに長いことするもんなんか・・・、息出来るんやろか・・・」というようなことなどを思春期前のうぶな気持ちでぼーっとながめていたのである。ちょっとした性への目覚めだったかもしれない。今の時代の子供達に比べれば、なんと「純」だったことか。
 この曲はその映画の主題歌。今回は曲についてというよりも、映画の話となった。

ニール・ヤング「孤独の旅路」

 少し前のことになるが、サッカーで、ドイツ代表のゴールキーパー、カーンが、ミュージシャンのニール・ヤングの初期のころに似ているという話があった。確かに、今のニール・ヤングは知らないが「孤独の旅路」「ハリケーン」を歌っていた頃のワイルドな風貌が似ていないことはない。ニール・ヤングは、アメリカの伝説的なフォークロックバンド、CSN&Yの「Y」として活躍した後、ソロ活動を続けている。CSN&Yのハーモニーをメインとした静かで叙情的なサウンドに対して、骨太なロックが彼の身上であろう。「孤独の旅路」はスローな曲調で、イントロのハープが物悲しげではあるが、全体を通して聞くと、とても力強い、パワーのある曲である。
 いつだったか「下北沢のジャニス」と呼ばれている金子マリさんが、京都の「たくたく」という老舗のライブハウスに来たことがあった。冬の寒い日だったと記憶するが、マリさんは、かなりひどく風邪をひいていて、歌うのが苦しそうであった。それでも、あのソウルフルなボーカルで何曲かを歌った。その中に「孤独の旅路」があった。アレンジはかなりカッコ良かったし、そのときの風邪気味の声にも合っているように思った。

ニュー・シーカーズ「愛のハーモニー」

 1972年のヒット曲。原題は「I'd Like Teach The World To Sing (In Parfect Harmony)」となっていて、訳せば「(完全なるハーモニーで)歌うことをみんなに教えてあげたい」ということになる。つまりゴスペルソングのようである。それを「愛するハーモニー」と付けた日本側のレコード会社も、その堅い印象をうまく和らげている。コカ・コーラのCMソングとして当時使われていたこともあって、日本ではかなりのヒットとなった。ニュー・シーカーズは、その5年ほど前に「ジョージ・ガール」でヒットしたシーカーズの再結成したフォーク・コーラスバンドである。こちらのヒットも懐かしい。「~Hey Girl Geoge Girl~」という出だしのポップな曲だ。オーストラリア出身の4人組。
 数年前に「ブック・オフ」でニュー・シーカーズの輸入盤を見つけ、少し迷ったが結局買った。アルバム名はその曲に付加されている言葉である「PERFECT HARMONY」である。このアルバムにはボブ・ディランの「風に吹かれて」、ビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エブリフェア」、エルトン・ジョンの「ユア・ソング」などのカバー曲があって、コーラスアレンジが施されていた。またジャケットもアーティスティックなペイントと4人の顔をあしらったポップ(というのかサイケデリック)な感じである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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