この文書は、平成16年12月から就任している亀岡市民生委員児童委員協議会で、広報部会を担当し、刊行物の『亀岡市民児協だより』第67号に投稿したものです。12月には2期目を迎えようとしていた年の3月、思わぬところから地元自治会長を引き受けることとなり、その顛末を書いたものです。
火中の栗を拾ってしまった私 〜1期目を終えるにあたり〜
西部地区 太田貴久男
令和元年、民生委員・児童委員の改選の年となりました。1期目の私がこの11月をもって退任することとなり、委員や関係者から「なんでやめるの?」と聞かれることが多くあって、この場をお借りして、その釈明と、この3年間での貴重な経験を与えていただいた皆様への感謝の意を伝えたく思います。
今年の3月末、私が住んでいる区の自治委員の選出が難航していました。遡ること2年前に同委員選出の際、区史に残るような混乱が生じた事が遠因でした。今回選出される自治委員は、慣例(3区持ち回りの原則)により、就任と同時に宮前町自治会長のポスト(地区社協会長とセットで4年間)を受けなければなりませんでした。難航するはずです。けれども、それが私に回ってくるとは、夢にも思いませんでした(今年の民生委員・児童委員の2期目改選は当然のことと認識していました)。既に実施されていた自治委員の推薦投票の得票者の中には私の名前もあったようですが、ずいぶん下位でした。しかしながら、投票が行われてから数日後、夜中に電話があり、区長・副区長そろって自宅にやってきました(上位得票者から順に訪問されてのようです)。暫し上位者への就任説得不発状況を聞いた後「民生委員・児童委員の後任は区長が責任をもってさがすので自治委員をなんとか受けてもらえませんか」と。この突然の提案に、就寝前の眠気もあったのでしょう、あるいは混乱する区の状況をどこかで終わらせないといけないと感じたのか、その切羽詰まった懇願に絆(ほだ)されて、数分間沈黙の後「う〜ん、しゃぁないなぁ」と発してしまったのです。お人好しか物知らずにも程があります。栗どころか火中の練炭をつかんだようなものでした(今思えば)。
この4月以降、自治会の仕事をしつつ民児協の活動も行うことになってしまい、多忙さを極めております。そんな中で日々感じるのは、民生委員の活動を通して得た地域の高齢化問題等々の理解と知識が、住民の暮らしを日々サポートする自治会活動と表裏一体の関係にあり、大いに役立つ経験をしたことを実感しています。
この3年間大変お世話になりました。
<民生委員・児童委員としての活動の様子>