平成29年3月、大学を退職するにあたり、職場の同僚、かつて一緒に仕事をしてきた職員の方々から記念の品をたくさんいただきました。その好意に対する返礼として、粗品をお渡ししました。それに添付したメッセージに、この38年の自身の思い出や出来事などを書き記して、お渡ししたのです。
自慢話、みたいになったかもしれませんが、この時代に、目立った業績もなかったけど、まぁまぁ前向きに働いていた人間がおりました、的なところが伝わればと思った次第です。
自分自身も「退職」というターニングポイントに、少しだけでも過去の自分を振り返る、良い機会となりました。
ここでは、そのメッセージに少し補足的に書き足して、また当時の画像なども織り交ぜて、いわば自分史(職歴編)として紹介させてもらいます。
私は昭和54年3月に佛教大学文学部史学科を卒業し、その4月から佛教大学事務局の事務職員として採用されました。
最初の配属は学生部厚生課でした。そこではアルバイトや下宿の紹介、奨学金交付などの業務をしておりました。場所は、当時の本館1階の東玄関を入ってすぐのところでした。
そのころの大学生には、新聞配達をしながら4年間を販売所で下宿しながら卒業するような苦学生が多くいました。また下宿・アパートは、四畳半、共同のトイレと台所、風呂は近くの公衆浴場、そんな時代でした。
その後、同じ部内の学生課に異動となり、昭和60年3月までの6年間、学生部のフロアで過ごすことになります。
学生部の時代は、ちょうど課外活動に関する規程が改正された頃で、学友会を中心とした学生団体が「新規程反対!」と言って大学側に撤回を要求し、大学側も規程に従わず届を出さないならボックスを封鎖するとして紛糾していた時代でした。
今現在の大学では、想像できない状況ではありましたが、しかし就職した1980年ころから20年ほどさかのぼれば、大学というのは学生運動・紛争が当たり前の時代がありました。
また私が大学へ入学した1975年には、保守色の強い大学ながらも、ヘルメットにタオル巻いた学生の姿もありました。時代を経るにつれ、そういう風景は見られなくなっています。
就職した頃、私は西賀茂にあった男子寮「知恩寮」に寮監(補佐)として2年間住むことになり、昼間は大学に出勤し、夕方寮に帰り、夜な夜な寮生達と酒を飲み交わしたことも楽しい思い出となっています。
その男子寮は、現在留学生の為の宿泊施設となっています。
男子寮の1日は朝の勤行(寮生一同で浄土宗のお経を唱える行事)で始まります。
男子寮での思い出
いろんな行事がありました。寮の学園祭、ビール(かけ)まつり、ハイキング・・・・
その後、補助金の申請や各種届出の窓口を主たる業務とする企画振興課に配属となりました。そこでは、留学生のお世話や同窓会報などの編集業務を1年(正確には11か月)していました。
1年に満たない短い期間ではありましたが、当時は十人余りの留学生と、保津川下りや富士山登山などを楽しんだ事が思い出深く残っています。
弁論大会
高野山で行われた弁論大会で、留学生が発表することになり、一泊二日で付き添いました。
林さん、黄さん・・・いまどうしてるのかなぁ?
翌年の3月(昭和61年)には通信教育部教材課に配属となりました。通信教育部では、部内異動も何回かありましたが、都合15年間、私の在職年数の半分近くを過ごすことになりました。
通信教育部での前半、教材課時代の7年間は、小学校2種免課程、社会福祉士コースなどの資格取得の需要が高まりつつある時代でした。大学と提携していた専門学校などの学生を含めるとピーク時には、もう少しで4万人に迫る在籍者数となっていました。発送するテキストの数も恐ろしいほどの分量で、郵便局行きのハイエースのバンに満杯積み、重みでスプリングが壊れたこともありました。学習指導要領の改訂なども重なって、新たに開発するテキスト、改訂版の再版など一人で10~20冊程度を常時担当し、毎日毎日校正作業と梱包・発送という肉体労働とで、身体も頭も酷使する時代でした。
けれども当時は、作業をこなすために、学生バイトに来てもらっていて、繁忙期が終われば、その学生たちと我々とでコンパや旅行などをしたことは楽しい思い出となりました。
↑ 教材課の仲間・学生バイト達と
バイトを通じて結婚した三木君
いつも僕らのマネージャー石見さん
一番の理解者やさしい松室課長
通信教育部での後半の8年間は、教務課・学務課が中心で、編入学生の科目認定や教員免許状の申請、その後スクーリングや試験リポートの責任者として学生からの苦情対応や試験監督者の手配などの業務をしていました。
ちょうどそのころ「大学院設置基準」が改正され、通信制による大学院が可能となった時で、上司と私に数名の学務課職員を加えプロジェクトチームが立ち上がったのです。
事務室とは別の部屋にパソコンを数台置いてもらい設置認可申請の作業にかかりました。通常の業務にも関わりながらでしたので、毎日毎日深夜まで書類作成・原稿入力作業などをしました。
また、文部科学省側も初めての認可となることから、事前相談や内容確認で質問に行ったり逆に呼び出しがあったりで、かなりの頻度で東京~京都の日帰り出張をしたものです。その結果、平成11年、本学は全国で最初の通信制大学院を開設するに至りました。
この作業、大学だけでは終わらず、申請書類の細かい内容について自宅で頭を抱えつつ数日間作文し続けたことは私にとって思い出深いものでした。当時一緒にプロジェクトチームとして作業をした職員さんとは、いまだに「あのときは大変だったけどやりがいのある仕事だったな」と言葉を交わします。
通信教育部を出て退職するまでの16年間は、2~3年でいろいろな部署を転々としました。
総合研究所、附属幼稚園、学術支援課、メディア教材開発・知財課、教育研究連携調査課、情報システム部、そして最後は、ふたたび附属幼稚園となりました。
情報システム部を除くと、大雑把に学術研究系の部署と、2回の着任と離任をした附属幼稚園の二つの分野になります。学術系の部署では、過去に通信教材課で編集作業をしていたこともあり、論集や研究紀要などを扱う事との相性は良かったと思います。また通信制大学院の設置申請業務で、教員の研究業績・論文の評価等についての目利きなども養われていたかもしれません。
これらの部署での成果として特別なものはありませんが、1つ挙げるとすれば総合研究所の時に、創設時以降の研究所の業績や出版物・研究成果などを『総合研究所要覧』(下記PDF)としてまとめたことでしょうか。刊行後10年以上経過していますが、大学のホームページを深く探していくと、いまでもそのデータに出くわすことがあります。
総合研究所要覧(2004年刊)PDF
また教育研究連携調査課では、著作権について勉強をして、学内で出版されている紀要や論集へ投稿した執筆者と、発行者となる佛教大学との著作物(論文等)の権利関係を、規程や執筆承諾書等で明確にしたことでしょう。
以後、ホームページなどで論文を公開することに一定の指標が出来たことは、あまり目立った事ではありませんが、長い目でみれば、研究成果の帰属が明確になり良かったのではないでしょうか。
附属幼稚園は、平成16年からの3年間と、平成26年から退職するまでの3年間、合わせて6年間在職することになりました。
どちらの時期にも周年行事があり、30周年、40周年ともに『記念誌』を編集刊行できたことは、これまでの経験が多少は活かされたのかなと思います。
2回目の異動を命じられた際に、当時の事務局長からは①幼稚園の定員を充足する、②職員室を明るく健康的にする、という2つの課題を内々に伝えられました。結果として、若手職員や副園長ら先生方の努力が功を奏し、平成29年4月からの佛教大学附属幼稚園は、久しぶりに定員充足してスタートすることになりました。一方「心の健康」のほうは、少しずつではありますが、明るい職員室となってきたかと感じています(こればかりは数値化できるものではないので「職員室の雰囲気が良くなった」との保護者さんからの多くの意見を聞いた結果で改善されたんだろうと考えることにします)。
これらの成果は自分自身の行ないによってのみ実現したことではありませんが、与えられた2つの課題が在職最終年に実現したこと、安どの気持ちでいっぱいです。日々の園バスの添乗、園外保育の付き添いはもとより、運動会や生活発表会等さまざまな園行事での裏方の仕事、過酷な職場でしたが、園庭を走り回る園児たちの姿に癒され、その笑顔に救われてきました。楽しい職場でした。
園と保護者を結ぶ情報連絡ツールとして
メルポコを導入しました。
(今ではもっと便利なシステムが出来ていますが当時は画期的でした)
メルポコの導入について
以上、自身の職歴を自慢げに書き綴ってきましたが、38年前に佛教大学に奉職し、事務職員として過ごしてきた、それと同時期、私のもう一つの歩みの中に、課外活動の団体顧問として関わってきたソフトボール愛好会の存在があります。カメラ好き・写真好きの私のパソコンのハードディスクには、リーグ戦の選手の姿や、合宿での練習風景、コンパで楽しむ学生の様子が、おそらく何万枚の単位で保存されています。初代から現役の学生(37期生)までの期間は、ほぼ私の在職年数と重なります。
数年前の合宿の時のことです、練習の合間、選手の水分補給のために休憩時に飲むお茶を「太田さんもどうぞ」と汲んでくれた紙コップには、私専用のコップとして使ってくださいと言わんばかりのイラストが描かれていました(この写真)。その気遣いに喜びました。そして最後に、このユニークな絵柄を私の心ばかりの品にあしらいました。 It's gonna be alright.(なんとかなるさ大丈夫さ)を添えて。
↑粗品(ハンカチ)と、退職の年にOB達がかけつけてくれて小宴を企画いただき皆で記念撮影
ここでは、そのサイトに記載した原稿などを「note」として1ページつくってみました。ほぼ私の在職期間と同じ時間を共有した「ソフトボール愛好会と私」の言葉を紹介させてください。