本日は、大津市勤労福祉センターの歴史講座「白洲正子 十一面観音巡礼紀行」の第2回目「若狭路とお水送り」を受講。講師は元滋賀県立安土城考古博物館副館長の大沼芳幸氏(=学生時代の友人)です。
今回は、若狭(福井県)八幡神社、若狭神宮寺で行なわれている「お水送り」の神事を通して、周辺の寺院に残る仏像(十一面観音・薬師如来・馬頭観音)の特色や、その仏像の意味合いにおいて、奈良二月堂の「お水取り」の行事と、如何にして繋がっていったのか、という話でした。
そもそも、若狭の「水」が、遠く離れた奈良の都と地下で繋がっているなどということは、科学的にはあり得ないことであります(また川から海へ流れている水脈は本州中央の山々が分水嶺になっているので若狭→奈良という流れもありません)。しかし奈良二月堂では、古来より汲み上げる「水」は、若狭の「水」であるとして、毎年、厳かに行われております。
講演では、この若狭から奈良へ至るルートは、大陸から若狭・越前へ物資や技術者(渡来人)が、都のあった平城京・藤原京へと、谷あいの街道を経由して到着したことを物語っているのだと解説されました。そして「水」というものが、そのルートの中で、神聖で信仰の対象としての象徴となったのだと。
二月堂のお水取りは、有名な行事で、舞台に並ぶ燃え盛る松明の火の粉が舞い散る様子が、例年テレビニュースでも放映されていますが、一方の若狭でも、燃え盛る松明をかかげた行事であることは、あのり知られていないかもしれません。この2つの場所で行われている同様の行事は、いにしえの文化(信仰)の伝播に思いを馳せるものであることは間違いありません。