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信長の大船と本能寺の変

大沼氏の同僚が制作したそうです
大沼氏の同僚が制作したそうです

 昨日、大津市勤労福祉センターの歴史講座「織田信長・天下布武の国を歩く」の第2回目があって、友人と受講してきました(JR二条駅から地下鉄東西線で、その時間まさに山鉾が巡行している道路の下を通り浜大津駅まで→地下鉄はそんなに混んでいませんでした)。講師は元滋賀県立安土城考古博物館副館長の大沼芳幸氏(=学生時代の友人)です。

 

 この日のテーマは「信長と湖西の城」、いつものように地図や写真を織り込みながら、信長の近江支配、とくに湖西、高島を中心として浅井氏の小谷城攻めに至る攻略を解説してくれました(約2時間)。中でも面白かったのが、湖北を攻めるために、坂本から船を使って向かったことです。そのために大船(長さ30間=54m、幅7間、櫓100)を、安土城の棟梁に命じて建造させたようで、その大きさもさることながら、本来なら船専門の大工(木を曲げる技術を持った)を使うべきところに、宮大工の棟梁(まっすぐな木を使うのが本業)を使ったため、四角い建物のようなデカイ船が出来てしまったことです。水の上には浮いたものの、実戦で活用されたのかは不明だということでした(大きな船で小谷城にいる浅井長政をビビらせた、とも)。

 

 講座終わって、友人と講師の3人で浜大津駅近くでちょい飲み。雑談に花を咲かせつつ、本日の内容に関連して大沼氏に質問「なんで本能寺の変は起こったの?」。彼曰く「信長は、明智光秀が70歳近くになるというのに、地方への領地替えを命じたから・・・」と。その年齢は、ちょうど私とほぼ同じ、織田銀行・亀岡支店の店長をしている私が、社長から「太田君、来月から鳥取支店へ行ってくれ」と言われたようなもの、そんなことなら織田銀行京都本能寺本店を焼き払おうか、と思うかもしれません(その頃は定年制度や年金制度とかもなかっただろうし将来に不安を抱いたのでしょう・笑)。

 

 

 

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