日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんは誰でも知っているかと思いますが、文学部等の出身者なら、さらに、漢字の意味やら語源を調べるための必携書『新字源』の編者の一人・小川環樹先生(1910~1993)を知っているかと思います。小川先生は湯川博士の弟になり、ほかにも小川芳樹(工学)・貝塚茂樹(東洋史)さんも兄弟になるという、学者一家の出なのです。
その小川先生、私の学生時代に、所属する学科の科目ではありませんでしたが、国文学科の専門科目として講義がありました。ミーハーな私は「新字源の小川環樹さんの講義ある!」と、卒業単位にならないことを承知で他学科聴講で登録しました。テキストは岩波書店から出ている『唐詩概説』もちろん小川環樹著です(名著です)。先生は毎回、風呂敷にテキストやらノート類を包んで持ってこられて、教壇で広げ、そして『唐詩概説』に掲載された詩を丁寧に説明していかれます。(一般的にいうところの)面白い講義ではありませんでしたが、かの有名な学者が目の前に居る、というだけで緊張し満足していたし、話される一言一句を漏らすまいと必死でノートを取りました。この講義、国文学科の学生が大半だったのですが、すごく私語が多く(理由はあえて言いません、元首相の失言みたいになりますので)、しかし先生はそのざわつきを気にするでもなく注意することもなく淡々と進められます。そのあたり根っからの学者なんだろうと思ったし、私語をしている学生は、こんな有名な先生が目の前に居るのに知らんのか、気にしてないのか、恥ずかしいな、と自問自答していました。
1年間を終え、最終講義となった日、私は講義が終了するやテキストを持って教壇に向かい、先生にサインをお願いしました(ミーハーです)。そしたら名前を聞かれて、すらすらと「太田君恵存 小川環樹」と万年筆で書かれました。サイン会での歌手とかだったら、握手でもしてもらうところですが、なにしろ大先生ですから「ありがとうございました」と席に戻りました。
その時のサインに書かれた「恵存」と言う語、はじめは挨拶程度の「拝啓・敬具」みたいなものと思っていたのですが、卒業後に辞書で調べたら「座右の書として大切に保存してもらえれば幸いです」という意味だと知りました。はい、私、座右の書としてまでは使えておりませんが、大切に保存しております。