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オクラホマ州立大学日本校の跡地

近頃では車の撮影などにここのロケーションが使われているらしいです
近頃では車の撮影などにここのロケーションが使われているらしいです

この写真の亀岡市交流活動センター(交流会館)は、亀岡市宮前町の山間部にあり、かつてアメリカ・オクラホマ州立大学(OSU)日本校のキャンパスがあったところです。建物は、その大学設立時に建てたものが、そのまま使われています(OSUのHPにはこの建物の雰囲気があります)。数十年前、全国的に、海外の大学の日本校ブームがあり、各地に雨後のタケノコごとく誕生したことを覚えている方も多いと思います。それらの設置経緯は、単独で日本の学校市場に参入、ということもあったかもしれませんが、大方の日本校は、18歳人口ピークに併せて、地方自治体が地域振興、若者人口の増加による活性化等、をねらった市町村との官民合同の学校であったかと思われます。都会のど真ん中にあった学校もありましたが、地方都市の自然豊かな(別の言い方では交通の便の悪い)場所にあったのではないでしょうか。この亀岡市でも、後者の例で、市がキャンパス地を提供し、町・村を挙げての支援のもとで開設されたのです。設立当初はそこそこ定員を満たしていたように記憶しますが、年々入学志願者が減少し(しかも相当早い時期から)、経営が行き詰まり、また市の支援も限界となり、募集停止を余儀なくされ、閉校、そして跡地と建物は、数年ごとに名称を変え(最初は大学の名残を思わせる「国際交流会館」だったか)、現在は、「交流活動センター」と呼んでおります。この学校の失敗は、他の日本校の多くの失敗例と同様だと思われますが、我々学校関係者からすれば、設立前から成功するとは、とても思えませんでした。経営には素人の私が思っていたことですから、当時、推進した専門家の先生方は、いったいどんな根拠をもって、このような道をたどることを先導したのでしょう?その成功しそうと思えない理由の第一番は、18歳人口が増加するといっても、それは一時的な現象でした。当然出生率や当時の幼児の人口などの統計はあるわけですから、減少していくことは決まっていたともいえます。次に、海外の大学日本校は、学校教育法で言うところでは、大学ではなく、専門学校の位置付けでした。「~大学」という名前にはなっていますが(もちろん海外では「大学」ですが)、我が国での認識は、あまり高いものではありません(今でこそ専門学校卒業生は日本の大学へ入学する際、短大扱いとなりますが、当時は高校卒と同じでした)。また海外ブームといっても、アジアで我が国が生き残る為には、西洋に目を向けるよりも、東アジア圏の国々に目を向ける、ということが、当時からも言われていることでした。あえてアメリカの大学を設置する意義が不明です。それでも、ここにしかない教育、カリキュラムを提供する、という信念で進めてきた大学でした。その結果が、跡に残ったこの建物、というわけです。

 

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コメント: 7
  • #1

    もりもり (火曜日, 13 12月 2011 18:30)

    うんうん、そんなことありましたねーー
    建物は、残っていたんだ

    大学関係者の貴殿が思っておられるように
    ど素人の私も思っていましたよ

    何でわざわざ、専門学校に・・
    こんなのマスコミも取り上げるなよって

    俺の子供は行かさないと思うよ・・カタカナに魅かれるなよ
    漢字の三流大学の方がずっとましってね

  • #2

    太田 (火曜日, 13 12月 2011 22:30)

    書き込みありがとうございます。
    このご時世です
    今の学生はなかなか大変です。
    学費、就職などなど。

    けど大学生活もいいものです。
    一流か三流かは関係ないと思いますよ。

    私はいつも学生さんをうらやましく思っています。
    あの日に帰りたい・・・・YUMING

  • #3

    あこがれ (日曜日, 18 5月 2014 14:06)

    先日十何年ぶりかで通りかかったら、あの幻の大学が無くなって亀岡市のレクリエーション施設に化けてる!!
    それ以来、誰が何の目的であの夢のような大学を(成功するとは到底思えない)あんな辺鄙な場所に創ったのだろー?と気になって色々HPなど探しまくってましたがやっとたどり着き、色んな疑問が晴れてホッとしました。
    時代背景が産み、又時代の当然の結末だったわけですね。

  • #4

    takefromjapan (金曜日, 06 3月 2015 16:04)

    OSU,懐かしいです。OSUの亀岡校が完成する少し前アメリカ本土のOSUに留学していました。「日本校」を開設するに当たりOSU本校の関係者の数名と話す機会がありました。当時は京都府とオクラホマ州が姉妹都市(州)に、亀岡市とOSU本校のあるstillwater市も姉妹都市にというまさに蜜月関係の最高潮の頃でした。ほかの大学についても日本校のまさに「出店ブーム」の真っただ中でした。
    当時現地にいた一日本人としては日本校開設に対し複雑な感情を抱いていたことを思い出します。入学を希望する志願者とは一体どのような人たちなのか~確か2年時までは日本で、その後アメリカに渡り志望する学部に編入…というシステムだったはずです。
    帰国後すぐ亀岡を訪ねる機会がありOSU亀岡校をみに行きました。煉瓦造りの本校そっくり(規模は比較になりませんでしたが)と玄関先のOSUの校章だけが印象に残っています。

  • #5

    (金曜日, 06 11月 2020 07:33)

    失礼ながら、交流ってゆるそうな職場にみえた
    蔵書どこ行ったのかな。亀人はその場の教職予定の教授から、
    教育受けれていないでしょう 残念

  • #6

    光井 光 ミツイ コウ (Alias) (金曜日, 02 6月 2023 07:10)

    私の勧めで、甥が福知山の日本校経由で、アメリカ オクラホマ大学に入学・卒業。その弟も兄に憧れて同じ道を歩み、現在は二人共に半導体関連の将来有望な地元企業の代表・社長になっている。大学そのものも、全世界大学ランキングで日本の有名大学の最上位グループに匹敵する、スポーツでも学問でも秀でた良い大学と思う。むしろ、それを生かせられなかった、日本側の努力が足りなかったとも思える。福知山校廃校は残念だが、よい事業の一つだったのではないか。が現下の世界情勢を鑑みれば、今後益々語学力の重要性が高まり、それにも増して、環境・広い視野に慣れることが必要になって来る。

  • #7

    まるまる (日曜日, 28 1月 2024 20:55)

    亀岡校懐かしいですね。当時、本土のOSUに留学していて日本人は数十人しかいませんでしたが、亀岡校の1期生が来て一気に日本人か増えました。日本人留学生があまりいないところを探して決めたところだったのに。

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