私が、佛教大学ソフトボール愛好会と関わることになったのは、大学事務職員として奉職して3年目、1982年(昭和57年)、学生部の事務室で働きながら、当時の学生寮の寮監をされていた西川玄衛さんに勧められ、住居を鷹ヶ峰の下宿から、男子寮「知恩寮」に移し、寮監と兼務することになった頃です。その時の寮生たちが創設したのが、佛教大学ソフトボール愛好会でした。ただし、その時点では、寮監と寮生(学生)という関係でしかありませんでした。下記の「歩み」にも、このことは書いているのですが、直接的に関わることになったのは、その2年後、1984年(昭和59年)に、団体旅行の引率者(仮の)として、夏の合宿に同行した時からです。その後、ソフトボールの知識・技術の何もない私でしたが、顧問は西川さんがいらっしゃったので、「コーチ」として登録することになりました。連盟の名簿にも、コーチとして私の名前が載るようになったのです。
この頃のエピソードを紹介しましょう。関西学生ソフトボール連盟のリーグ戦での指示・監督については、男子の場合は、学生であるキャプテンが選手兼監督として務めますが、女子部の場合は、現役を引退した男子部の4回生が監督・コーチの任を持つ場合が多々ありました。そんな時、我が女子部のチームの監督として、男前な4回生が監督・コーチングしていて、それを目にした他大学の女子チーム(特に女子大など)は、「あの佛大のコーチカッコイイやん」「名前なんていうんかな?」となるわけです。そして連盟の名簿をチェックして「太田貴久男」という文字を目にするわけです。そんなことで「佛大のコーチのオオタいうのはカッコイイらしいよ」という噂が、佛大以外の女子大選手間で広がった、というエピソードなんです。
その後、顧問をしていただいていた西川さんが退職され、私が顧問となりました、1988年(昭和63年)のことでした。
試合や合宿で躍動する姿(の写真)や試合情報を掲載して、皆で共有したり、知り合いにも活動内容を知ってもらったり、家族にも見てもらおう、とインターネットでのホームページを作ったのが2000年ごろのことです。何度かサイトを変遷したり試行錯誤しながら、Jimdoというページで落ち着きましたが、ネット上で画像を公開することは便利な反面、プライバシーの問題もありました。
そんなころにfacebookのグループ機能を利用した画像掲載、情報共有が主流となり、コミュニケーションもとりやすくなりました。そいう流れの中、昔ながらのホームページの存在価値も薄くなり、Jimdoのページは、更新されることは少なくなり、また学生の手により、試合結果や投打のデータなどを運営することも生まれてきました。
ここでは、そのサイトに記載した原稿などを「note」として1ページつくってみました。ほぼ私の在職期間と同じ時間を共有した「ソフトボール愛好会と私」の言葉を紹介させてください。
1982年(昭和57年)、佛教大学ソフトボール愛好会は発足しました。
ちょうど発足の1年前、京都市北区西賀茂中川上町の一角にあった佛教大学知恩寮(現・国際交流センター)に入寮していた田川、藤原らは、寮生同士、近所の公園でキャッチボールなどをしていました。そしてチームを作って・・・・という話になったようです。仲間内では、どんな種目(硬式・軟式・ソフト)にするかで意見が分かれました。
結局、あるものは軟式野球を選択し(現軟式野球部のルーツ)、田川・藤原らは、学科の友人などを誘ってソフトボールのチームを作りました。主将として磯本、副主将として田川・高村、統制として河内、主務として藤原、会計として1学年下の高菱、というメンバーでした。発足は1982年であったと思いますが、正式に「あみたあば」などに掲載されたのは1983年あたりからです。
大学内で公認団体となるには顧問が必要となります。その顧問になってもらったのが、知恩寮の仕事をされていた西川玄衛(にしかわ・はるえ)さんです。西川さんは、寮監の仕事を長くされていたこともあって、非常に「芸」達者な方で、「ハイライト」などのタバコを使った替え歌の芸を覚えているOBも多いのではないでしょうか。
1983年(昭和58年)は、前年度会計の高菱が主将となりました。そこに新しく津和、湯川、吉原、真木、横田等々、10名あまりの個性豊かな新入部員が入りました。また2名の女子も初めて加入し、女子部の原型が誕生した年でした。
1984年(昭和59年)には正式に女子部が発足しました。初代主将は柳原さん。男子主将は津和君。この年の夏合宿は愛知県知多半島にある海水浴場でした。そこへ団体で行くには、誰か大学の教職員の引率がないと割引を受けられない、顧問の西川さんはたまたま都合がつかない、ということで白羽の矢があたったのが太田でした。ソフトボール愛好会との関係が出来たのはそのときからなのです。
その後、ソフトボール愛好会の部員は増加の一途をたどります。男女ともに関西リーグに加盟し、本格的なチームとして以降すすんでいくことになるのです。
1988年(昭和63年)に顧問の西川さんが退職され、1989年から顧問として太田貴久男が就任しました。1998年(平成10年)には、かつて高校球児の経験のある山添恭寛氏(通称zoeさん)がコーチに就任しました。山添氏は、技術的な面だけでなく、遊びとか勉強・進路の相談などについても一緒に語り合える指導者で、合宿での練習メニューであるシートノックは男女ともに必須のコーチ人気メニュー、名物メニューとなっています・・・・お世話になったOB数知れず。以降、選手は何かと世話になっております。
2005年(平成17年)男子関西ソフトボール連盟の春季リーグ戦において2部ブロック優勝・ブロック同士での決勝にも勝利し、1部昇格という快挙を成し遂げました(主将・長崎雅敏)。
同年秋季リーグは、4回生も現役参加し、1部残留をキープしました。翌年(2006年)、春季リーグにおいて最下位となり、2部降格までの2シーズンを、1部の強豪大学と争うこととなりました。
これまで何度となく2部で上位に食い込み、あと一歩のところで1部昇格というチャンスを逃し、その壁は厚かったのです。この平成17年の「1部昇格」という快挙は、創部以来はじめての出来事でした。
↓2005年春季リーグ戦・・・1部昇格の選手たち
ところが、2006年、2部に降格し、2008年(平成20年)には3部降格という屈辱を味わいました。恒常的に選手が確保できる学内の某クラブと違い、入部希望者の増減により、チーム力が浮き沈みする我が愛好会の宿命です(だが、しかし、創立から約30年近くの間、途切れることなく続き、毎年のリーグに参加していることは、1部昇格という華々しい快挙の影で、本当の、正真正銘の、すごいことなのではないでしょうか、愛好会ですよ、つまり無所属公認団体、ボックスもないんですよ)。
2009年、春季リーグ戦において、3部Cブロックにて優勝し、A・Bブロックの勝者にも快勝して2部昇格を果たしました。秋季リーグにおいてもブロック優勝に絡む戦績を残しました(首位と同率で対戦成績により3位)。2010年度の春季リーグでは、2部で下位に落ち、3部上位チームとの入れ替え戦で負け、秋季リーグは3部スタートとなりました。しかし秋季リーグで奮起し、2部昇格を果たし、2011年度春季リーグでの2部優勝、1部昇格を目指して、日々練習に励んでいます。
女子はシーズンごとに予選があり、その結果にもとづいて部別リーグが行われています。2009年春季リーグ時点では、チーム最低人数に達せず、初の神戸学院大学との合同チームを編成するも、3部最下位という成績でした。
また秋季リーグでは、マネージャや4回生の参加も得て単独のチームで復帰しましたが、3部3位という結果でした。また2010年度の春季リーグでは単独チームの選手人数に達せず、また合同チームでも成立せず、試合には出られませんでした。その年の秋季リーグでは、新人も加入し、1シーズン開けての単独参加が実現。予選リーグの結果、3部スタート。1勝はしたものの、結果は最下位(4位)となりました。2011年春季リーグでの上位を目指して日々練習に励んでいます。
2017年(平成29年)3月現在で、OB.OGの人数は400名を越えました。初代から34期生までが卒業。現役生は35期~37期まで在籍しています。OB会も定期的に開催され、多くの関係者の参加で盛大に催されています。
追記
2014年4月より、太田貴久男から、それまでコーチとして選手を指導してきた山添恭寛が顧問に就任しました。なお太田は相談役として愛好会を側面より支援することとなりました。
2015年4月より、コーチとして大学職員の海老原星太が就任しました。海老原コーチも高校野球の経験者で、合宿などでは山添さんのノックとは、また違ったソフトかつ大胆なノックをしてくれます。
2017年3月 もと顧問・太田貴久男が佛教大学を退職し、大学キャンパスから退きました。4月以降は「ソフトボール愛好会相談役」として、試合や合宿を見に行っております。
佛教大学ソフトボール愛好会での学生たちとの出会いは、初代から数えてほぼ40年、私の人生の半分以上の関わりとなります(職員として就職して退職するまでの期間と重なります)。
このことは私の人生にとって大切な宝物だと思っています。
そして、これからも。
OB会について
(かつて「掲示板」に書いた内容をリライトしました、OB会についての顧問としての思いでした)
もうすぐOB会です。一般的に「OB会」というのは、卒業生・同窓生同士の親睦団体ですので、現役学生は本来、参加しないものだと思います(開催の一般的解釈として、ですが)。がしかし、我がソフトボール愛好会では、この会の幹事(世話係)を現役の学生がやっています。このシステムは「OB会」の第1回が開催されたとき(1992年)から続いてます。それより前、初期のOBさんが「楽球会(らくきゅうかい)」という会を作って、居酒屋などで何回か開催されていたことがあります(サークル名簿に対抗したようなOB会名簿なども作成していました)。そのときは、定石通り、OBさんの手により準備し、OBが集まり、時に現役学生が「招待」されて、開催されていたはずです。その後、OBの数も年々増え続け、初期の頃の、すぐ連絡のつくような会としては運営出来なくなりました。当時、幹事をしてくれていたOGさんも、社会人として働き、また結婚し家庭を持ち、何をするにしても限界が出てくるようになったのでしょう。そして、ちょうど20年前のOB会(第1回目)からは、幹事を現役の学生がやるようになりました。これは上記の流れから、当然の成り行きだったと思います。
2011年度現在、OBの数は300名以上となっています。これだけの数のOBに対して、4年ごと(5年ごと)に宴会場を予約し、案内状を作成し投函して出欠を確認するには、現役の手を借りなければ出来ません(住所シールは同窓会事務局で申請すれば入手出来るようになりました)。その人的パワー、動きやすさ、大学との場所(佛教大学)の一定性、などを考慮すれば、それが一番スムーズなんですね。
また現役の学生諸君には、ほんとに幹事ごくろうさんだと思いますが、この会をOB(卒業生)だけのものと考えず、自分達も含めたソフトボール(愛好会)を愛する者の集い、拡大コンパ、と認識してほしいものです。その意図がはっきりしていれば「OB会」という名称は不要なのかもしれません。例えば「OBと現役の交流会」「愛好会ここまでよく続いたね、の会」「やっぱりいつものさざんか亭の会」「御所G仲間の会」・・・などでも良いのかもしれません。今の4回生などはこの3月でOBの仲間入り、1~3回生だって、次回のOB会の開催時にはOBになっています。4年間なんて、あっという間です。大変だけど、OBの為、そして自分たちの為に、よろしく頼みます。
そしてOBの皆様方、そんな現役学生達の仕事に感謝するとともに、学生の一番の活動である春秋のリーグの応援をはじめとして、末永くこの会が続くように、物心両面からの御支援のほど、お願いいたします。 (平成23年12月 太田貴久男)
顧問あいさつ ソフトボール愛好会OB会顧問あいさつ(2012.2.11./京都ホテルオークラ)
こんばんは。OBの皆さん、忙しい中、よくお越しいただきました。そして現役の皆さん、OB会開催のために、いろいろ段取りしてくれてありがとう。特に、キャプテンの村越君、川村さんには何かと気苦労をかけたと思います。また山添コーチには、会場確保からホテルとの交渉などお世話いただきました。あと遠方から、いろいろ段取りしてくれた17期の塩野くん、ありがとうございました。
「もしも・・・」というのは仮定の話しですが、~もしソフトボール愛好会が部員不足で解散していたら~、OBは、このような盛大なOB会、OB戦を催すことは出来ません。つまり、4月になって、高校生が佛教大学に入学してきても、入部することは出来ません。創部からいままで続いていたソフトボール愛好会の歴史は途絶え、残るのは、それぞれの学生時代の思い出だけです。そんなことは想像したくはないことではあります。
いまから30年前、1980年ころに産声をあげたソフトボール愛好会、以来、OBの数は、現在までに300人を超えています。30年間も続いていることに感謝したいと思います。継続しているからこそ、そこから、この場所から、このOB会(交流試合含む)から生まれるものもあると思います。昨年の漢字「絆・きずな」、ということも言えるでしょうし、また、一人一人にとっては、新たな「出会い」や「喜び」「感謝の気持ち」なども生まれるでしょう。
この会は、OBのためだけのものではありません。「OB会」の名の下に、佛教大学ソフトボール愛好会の新歓コンパと追いコンを合体したような宴会だと思っています。現役も楽しんでほしいですし、見知らぬOBさんと交流してほしいです。OBさんには、久しぶりの同期・同世代との再会に花も咲くかと思いますが、それは、またこのあとの2次会でするとして、ぜひとも現役と交流してください。学生も遠慮せずにOBOGさんに話しかけてほしいです。同じソフトをやっていたあいだ柄です、自然に話題も出てくるでしょう。そしてOBさんから、何かを得てほしいと思います。実りの多いOB会となることを祈念し、顧問の挨拶といたします。 佛教大学ソフトボール愛好会
顧問 太田貴久男(当時)
佛大ソフトボール愛好会のページ
新ページ開設による当ページ縮小運営のお断り
ここは佛教大学ソフトボール愛好会のサイトです(でした)。2017年に、学生自身の手により、別途上記ホームページが開設されました。いままでこのサイト(もと顧問の運営)は、学生から情報をもらいながらの間接的な運営でしたが、新たなサイト開設により、選手の情報にしても、試合予定、試合結果の情報も、より早く、正確に知ることが可能となりました。
本来、大学サークルのページですので、学生の手により運営することがベストです。ただし、入学して選手として、幹部として、引退し卒業年次として、ソフトボール愛好会に関わっていく現役時代は限られています。しかも、これらのホームページを管理していくのは当初、幹部などが主導していくことになるでしょうから、毎年の担当、ということとなり、そのサイトの更新・管理などのノウハウを如何に継続可能か、一番の課題となるでしょう。
幸い、近年の傾向として、インターネットで情報発信するためのホームページ運営のハードルは低くなりましたし、大学教育や一般社会の中でも情報リテラシーも向上しつつあるので、新たな学生によるホームページの開設は時勢を得た好機だといえます。またフェイスブック・ツイッターなどもありますので、即時的な情報発信、登録者同士の交流は、そちらで行うものとして、この新たなサイトは、インターネットに公開して、佛教大学ソフトボール愛好会の、まさに「顔」として、世界に発信していくツールとしての活躍が期待されるところです。
本サイト(もと顧問運営)には、愛好会の歩み、OB会の記録のページなどもありますので、当面、設置継続していきたいと思っております。新たなページのサブ的な存在として、運営方法などを探っていきたいと考えております。このサイトは、2代目のホームページでした。2000年ころに、なんとか学生の試合情報などを発信できないものか、OBにそれを伝えられないものか試行錯誤しつつ「RAK」という無料ホームページにたどり着きました。ただし無料でしたので広告などが入ったり、ちょっとページを加工したりすることは出来ませんでした。その後、「Jimdo」という無料ホームページがあることを知り、広告の少なさ、ページ加工のし易さ、見栄えの良さなどの点で、移行してきたのです。
私事となりますが、太田貴久男は、今年3月をもちまして佛教大学を退職し、大学キャンパスから離れて暮らしております。その時期に新たな学生の手によるホームページが出来たことは偶然とはいえ、時代の節目を感じております。長らく当ページを閲覧いただいておりましたOB各位、また愛好会のサポーター様、一般の方々、閲覧していただき、ありがとうございました。
これからも細々とやっていきますので、よろしくお願いいたします。
2017年8月15日 佛教大学ソフトボール愛好会 もと顧問 太田貴久男
ソフトボール愛好会が本気になりだした頃
ソフトボール愛好会が本気になりだした頃
~女子部が始動した様子を『連盟20周年記念誌』よりみる~
『関西学生ソフトボール連盟20周年記念誌』1988発行
「リーグ戦の思い出」
佛教大学がリーグに参加したのは、私が3回生の春からでした。それまでは、ただソフトボールを楽しんでるだけで、試合できるようなチームではなかったため、その春は、必死で練習しました。そして初めてのリーグ戦、勝てるとは思っていなかった試合に勝ち、本当にうれしかった事を思い出します。
初心者の人も多く、大変だった時もありましたが、負けて悔し涙を流すより、勝って嬉し泣きしたいという気持ちで、チームがー丸となり試合に臨んできました。
卒業して1年がすぎ、学生時代の思い出というと、試合に勝ち、喜びのあまりみんなで泣きあった事、リーグを前に、毎日続いた厳しい練習とソフトボールに一生懸命打ち込んでいたチームのみんなとの思い出ばかりです。 嬉しかった事、悔しかった事、すべてがリーグでの良い思い出となり、リーグに参加して本当によかったと思います。後輩のみんなも心に残る試合をして欲しいと思います。
(63年度卒業生 佛教大学OG 山本祥子)
<解説>
我が大学の女子部が関西学生ソフトボール連盟に加入したのが、1986年ということになります(男子はその少し前だと思います)。この記事を書いた山本さん(現在の姓・木森さん)は、ソフトボール愛好会の5期生です。その時、3回生といいますから、学生時代の現役最後の年に、公式試合を初めて経験されたということになります。そんな状況でしたから、いままでの(2回生までの)ソフトボールの練習の雰囲気とは、すっかり変わり、相当ハードだったのだと思います。リーグに加入したからには、そういうことを受け入れることを覚悟する、ということだったのでしょう。そして、その苦労を経て、試合に臨み、1勝をした時の喜び感激はひとしおのものがあったことでしょう。初期の頃の女子部の緊張感を感じる文章です。(太田貴久男)
「佛教大学(女子の部)の紹介」
関西ソフトボールリーグ20周年おめでとうございます。我が佛教大学が、この関西リーグに加盟することになったのは、昭和62年の春で、今年で4年目を迎えるわけですが、20年という長い歴史を考えると、うちの大学はほんの新米なのだと改めて感じました。
ここで佛教大学の紹介をします。うちの大学は他の大学と違い「ソフトボール愛好会」という男女一緒のサークルとして成り立っています。そのせいで、リーグに加盟する前は、大学近くの公園で、男子に混じって練習する程度で、試合を意識せず楽しむことを目的としてやっていましたが、リーグに加盟することで、男女別々にそれぞれが試合に勝つことを目標に、練習するようになりました。
しかし、大学に練習場所がないため、京都御所にあるグランドを借りなければならず、このグランドを借りるためには、男子部員が泊まりこみで順番をとらなければなりません。これは通称「場所とり」といって、特に寒い季節は男子部員を恐れさせています。
こんなにまでして借りるグランドなのですが、大学からバスで30分、バイクで15分の所にあり、決して近いとはいえません。その上、整備されておらず、石もたくさん落ちていて、1日に2・3回はイレギュラーで恐い思いをしています。こんな所でいつも練習をしているため、試合で園田や武庫川のグランドを見ると、「御所のグランドで試合したら、勝てるかもしれんで。」と、とんでもない事を言っているのです。
そのほかに、部室がない、練習道具が少ない、大学に来てソフトボールをはじめた者が多い、などという問題を抱えていますが、クラブのメンバーは、現在1回生が10名、2回生が4名、3回生が4名、マネージャーが2名の計20名で、みんな明るく元気で、本当にソフトボールを愛し、それぞれが上手になろうという意欲に燃えています。
63年の春季リーグでは、2部Aグループで2位という、佛教大学にとっては今までで最高の成績を残すことになりました。しかし残念ながら、秋季リーグでは1勝もできず、今度の大会では、Bグループで戦うことになりました。どの試合も最後のひとふんばりが足らず、1点差で負けてしまうような試合で、自分達の実力のなさを感じてしまいました。うちの大学の欠点は、いつも相手のペースに巻きこまれて、自分達のペースをみだしてしまうことです。今度の大会では、この欠点を克服し、どの対戦相手とも佛大らしい試合をしたいと思っています。
私達3回生にとっては、今度が最後の試合となります。ぜひ優勝し、後輩達をもう一度Aグループで戦わせたいと思っています。またリーグに入っている以上、1試合でも多く勝つことを目標においていますが、ただやみくもに、勝つことのみに焦点をあてるのではなく、私たちのチームカラーである、元気さと明るさを大切に、楽しんでソフトボールができるチームを作っていきたいと思っています。
これからも、一部の大学のよいプレーを吸収し「練習は厳しく、試合は楽しく」をモットーにがんばります。ですから みなさん練習試合してください(グランドつきで)。
(佛教大学ソフトボール愛好会 女子主将3回生 大安真弓)
<解説>
この大学紹介の文章を書いたのは、ソフトボール愛好会の7期生、大安真弓さんです。上で書かれた山本祥子さんが、3回生の時の1回生(新入生)という関係になります。そして2年後、大安さんは3回生の時に女子部の主将になり、ちょうどその年に、関西学生ソフトボール連盟が20周年を迎えたので、大学の紹介文を書くようになったのでしょう。
さて紹介の冒頭に、我々のサークルは大学の中の位置づけは愛好会で、かつては、大学の近所の公園で男子に交じり練習をしていた、というくだりがあります。この公園こそ、今も大学の駐輪場を出て、北側へ続く鷹峯街道を少し歩いた「上の町」のバス停近くにある鷹峯公園です。今現在やっているような正規の練習(シートノックなど)をしようものなら、ボールは民家へ入るわ、車に当たるわ、公園で遊ぶコドモ達とも場所の調整しないといけないわ、と大変な苦労をされたのだと想像しますが、そんな状況のため、キャッチボールとか基本的な守備練習くらいしか出来なかったのではないでしょうか。
その後、連盟に加入し、どうしても本格的に練習しなければならない、けれどもグラウンドが無い(大学のグラウンドが使えない)状況で、現在も続いている御所グラウンド、ということになったのでしょう。御所グランドの「場所とり」は、大変だったようですね。夏の季節ならいいですが、冬場は大変です(今はさすがに徹夜はないですよね)。
そんなグランドですが、整備されていないのでイレギュラーバウンドが頻発した様子です。対して、園田(園田グラウンド)や武庫川(武庫川女子グラウンド)は、よく整備されていているんでしょうね、御所グラウンドで試合があったら勝てるかもしれん、というのは、可笑しくもあり、健気な言い回しですね。当時は、女子は1部と2部があり、2部の中にAグループとBグループがあったようです(現在のようにシーズンごとにグループを決めるのではなく、今の男子と同様に次のシーズンまで順位を引き継ぎ、入れ替え戦などがあったのでしょう)。そのBグループは、現在の3部、というランクになるんでしょうね。そんな中で、2部Aグループで2位になった事があったわけで、相当頑張られたものだと想像します。Bグループに落ちてからも、女子部の主将として、もう一度、後輩たちをAグループで戦わせてやりたい、と最後のリーグに臨む強い志(と後輩への思い)が伝わり、こういう思いは、何年経っても不変だなぁ、と感じます。(太田貴久男)
輝いていたあの頃(最近の卒業生たち)