手島堵庵と「児女ねむりさまし」
手島堵庵(1718~1786)は、石田梅岩(亀岡出身の江戸時代の心学者)の門弟です。享保3年(1718年)に京都に生まれ、青年期に両親を亡くし、祖母に育てられました。17歳で梅岩の門に入りました。その後、19歳で開悟の心境に到るなど早熟で、梅岩にその才を認められました。梅岩没後は、学問教化活動の前面に出ることは無かったのですが兄弟子達が次々と亡くなり、自身が聴衆に対して講義を行うことになりました。その際にも「我は教えをなす身柄にはあらねども、先輩すでに没せられしかば止む事を得ず学びがてらに講釈をなすなり」と謙虚に心境を述べています。そんな控えめな堵庵でしたが、講義は分かりやすく、それまで50人程度であった聴衆の数は次第に増え、常に数百名という盛況となったそうです。また聴衆は大人だけでなく、7歳から15歳くらいの子供も多く、そのテキストとして「児女ねむりさまし(いろは歌)」が使われました。この「児女ねむりさまし」は、7歳から15歳までの子供向けに、家庭における日常の行儀や心掛けを、絵をあしらったいろは歌にして説いた分かりやすい教材でした。石門心学の教えだけでなく、当時の倫理観、世相などを知る上で貴重な文献です。その後、堵庵は、石田梅岩の学問を「石門心学」と名付け、講舎を次々に設け、またその質を維持発展するための諸制度を制定しました。石門心学の興隆に尽力した人物です。
参照・引用 : 学校歴史博物館
諺に曰く、習うよりなれよと、宣なるかな、これ書に所謂不善になれしめずとあるにかなへり。されば人は常に善になれて不善を遠ざくべきなり。かりそめの戯言も思ふより出るとあれば、また勉強て善言を唱へなば、心これがために感じて善にうつるべし。故(しかるがゆゑ)に相知れる兒女のともがら、平常織りぬふわざの口ずさみにもせよかしと、修身の要語をやはらげ、覚えやすからんがため、いろはの序をもていやしき詞につづり、聊か善心を興す使とならん事をねがふ。
〈素直な心〉
「いぢがわるうは生れはつかぬ 直(すぐ)が元来(もとより)うまれつき」
(意地が悪いのは生まれつきではないよ、誰でもみんな最初は素直に生まれてくるのだから)
〈強い心〉
「ろくな心を思案でまげる まげねばまがらぬわがこころ」
(くだらない考えであれこれ迷って結局悪いほうを選ぶことが多い、無理やり曲げようとしなければ曲がらないのが人の心なのに)
〈恥を知る〉
「はぢをしれかしはぢをばしらねは 恥のかきあきするものじゃ」
(恥を知れといってはみても何が恥かを知らなかったら 結局は恥をかいてしまうものだ)
〈忠と孝〉
「にくむはづなはふ忠とふ孝 ほかはにくまふやうがない」
(人を憎むきっかけは正直でないことと親を大事にしないことからくる 他に憎むことはおこらない)
〈欲張らない〉
「ほしやをしやの思案は鬼よ らくなこころをくるしめる」
(あれが欲しい、これが惜しいと思うことが鬼となって、普通に生きようとする心を苦しめるのだ)
〈正直な行い〉
「へちた事には善事(よいこと)はないぞ しれた通がみなよいぞ」
(盗んだり拾ったりしたものに善いことはない、正直にすることが大体よい)
〈忠と孝〉
「とにもかくにも親孝行と 主へ忠義をわすれやんや」
(いずれにしても親孝行と 主人に真心を尽くすことを忘れてはいけないよ)
〈人間関係〉
「ちかい親子にむごいを見れば あかの他人はおそろしや」
(肉親である親子の間でむごいことが行われているのを見たりすると、まったく知らない他人はもっと恐ろしく思われる)
〈誠実〉
「利目ぶるのは大かたあほう しれた通りでよいことを」
(知ったかぶりをして大げさにする人は大体がおろかな人だ、みんながやっているように誠実にするのが一番だ)
〈正しい判断〉
「ぬかるまいぞや思案の鬼が といと地獄へつれてゆく」
(判断を間違ってはいけない、あれこれ迷ってしまうとかえって悪い結果になることがあるものだ)
(自分の貴任)
「留守とはいはれぬおのれがこころ よいもわるひもおぼえあり」
(留守にしてます今いませんよとはいえないのが自分の心だ、よいこともわるいこともみんな身に覚えのあることばかりだ)
〈男女の行儀〉
「男女(おとこおんな)の行儀が大事 あくしやうものめは人のくず」
(男女の間では行儀よくすることが大切だ、悪い習慣や道理に外れたことをするのは人のくずといえる)
〈身勝手に往意〉
「われをたてねば悪事は出来ぬ しれよ心に我はない」
(自分の身勝于な思いだけを何とかしようと無理をしなければ悪い結果にはならない、無理をするときに限って本当の自分はいないものだ)
〈何でもかんでもお金では〉
「かねをほしがるそこいがいやよ 人を見くだす天狗ずき」
(なんでもかんでもお金を請求するところがいやだ、金を持っているからと人を見下している まるで天狗のようだ)