このページ開設の経緯
今から20年ほど前に、私は、園部町を中心にした郷土史研究のグループ「丹波史談会」に入会しました。その会では、郷土史料の輪読会や近隣町村にある史跡の見学会などの活動をしており、また年に一回のペースで『丹波』という雑誌を刊行していました(写真)。入会して数年経って「太田さんも何か投稿してください」との依頼をうけました。あいにくと歴史関係に関心はあるものの、特段に発表できるほどの研究はしておりませんでした。それでも強く勧められ、ではずいぶん前に民俗調査をした資料があるので、市史などの文献類を参考しつつ「研究ノート」という、やや軽い形で提出させていただきます、となりました。
数年前に身軽になり、時間的な余裕も出来てきたので、10年ほど前から運用していたこのホームページを、アカデミックな面で充実させようと、「民俗学」のページに、学生時代に勉強したリポート類の原稿をアップするようになりました(愛宕山のリポートは先日完成)。さらに思い出したのが、この雑誌に掲載された原稿です。いまどきは便利ですね、雑誌に掲載されているような活字の印刷物ならば、自宅にあるプリンターのOCR機能でテキスト化(文字データへの変換)が出来るのです。読み取り能力は100パーセントではありませんので、多少は修正を施す必要はありますが、一から入力することを思えば楽勝でした。そして、原稿そのままを掲載するのでは芸がありませんし、面白くありません。それぞれの行事ごとに、民俗学の観点からの解説を追加することにしました。当地の年中行事だけでは、民間信仰や農事暦との関係、あるいは明治5年に施行された新暦と以前に運用されていた旧暦との関係や影響・・・等々、いまひとつ理解しにくいところも出てきます。そのあたりを「民俗学事典」などの知見を参考に、さらに自身の見解なども加味して付け加えることにしました。
以下、体裁としては、雑誌に掲載された原稿をベースに、各項目の後に解説を載せました(行事の説明文の後に【解説・~】として「です、ます調」にて表記→もともとの原稿はそのまま「である」調です)。また当地の各時期における行事の写真がすぐさま調達出来ませんので、国立国会図書館にあるデジタルコレクションなどのデータ・その他出版物に掲載の画像等を、それぞれの年中行事のイメージ図・写真として掲載しました(したがって畑野町の行事の内容とは直接関係は無く、あくまでも行事のイメージとして掲載しています、江戸期の絵図などが多いです)。どちらにしても、出典を明記して、著作権引用のガイドラインに沿ってコピーしていることを付け加えます。
出典・参考文献・参照サイトについては、ページ末尾に掲載しています。
亀岡市畑野町の年中行事
― 昭和53年夏の調査から ―
『丹被』第4号(平成14年7月28日発行)所収「研究ノート」に民俗学の知見を加え、総合的な年中行事概要を目指して。
はじめに
調査をした時期は、 1978年(昭和53)である。亥の子行事について地元の亀岡市畑野町をフィールドとしてまとめようとしていた頃である。亥の子行事は、年配の方なら経験されたこともあるかと思うが、新暦で11月亥の日に行なう子供の行事である。この行事を取り上げるにあたり、その地域の一年を通じた行事にはどのようなものがあるのかを調査した。
平成10年3月、『新修亀岡市史資料編第5巻』が刊行された。この巻は、民俗誌が中心となっており、「里山に暮らす村」と題して亀岡市史編纂室の鵜飼均氏の執筆された畑野町土ヶ畑の民俗誌がまとめられている。この年中行事の項には、『畑野こども風土記』(昭和40年畑野小学校刊)という文集が紹介されており、ほぼこの文集に沿った内容となっている。筆者による以下の調査内容も、この文集の項目を参考にしており『市史』の内容とかなりの部分で重複しているが、対象とした地域が土ヶ畑だけでなく、畑野町の残り2ヶ村、広野・千ヶ畑を含んだものとしていること、 一部の行事については、明治生まれの伝承者に聞き取りをした内容を含んでいることがあり、あえてこの場をお借りして掲載させて頂くことにした。
畑野町の概要
畑野町は、京都府亀岡市の中心部から、西北に約15㎞の地点にある静かな山村である。海抜は300~500mで、亀岡市内でも有数の高地であり冬期の積雪量も多い。まわりを高い山に囲まれ、そこから流れ出す大路次川の谷間に点在する土ヶ畑(ドンガハタ)・広野(ヒロノ)・千ケ畑(センガハタ)の三ヶ村よりなっている。人口は、昭和40年、45年、50年の調査によると、土ケ畑では、153-131-110人、千ケ畑では、172-144-133人と両村とも減少しているが、広野では、146-133-175人と増加している。これは、この地が大阪方面に近いということから、広野を中心として、宅地の開発が進み、人口も増加の傾向にあることを示している(筆者注:平成2年の調査では、土ヶ畑:133人、千ヶ畑:132人、広野:1,258人という様に大きく変貌している)。生業は、稲作を中心としているが、山間寒冷地のために、裏作はあまり出来ない。田畑の面積も少なく段々畑が多い。しかし、山があることから炭焼き、寒冷地であることから寒天の製造が盛んであった。今日では、会社勤務の人が殆どである。畑野町の三カ村は、現在の行政上では、京都府亀岡市に属する同じ町内の区域であるが、古く藩政期には、広野・千ヶ畑は亀山藩、土ヶ畑は園部藩に属していた時期がある。そのためか、交易・通婚圏などは、今日でもその頃の影響がある。例えば土ヶ畑の場合、隣村の大河内・天王などとの付き合いも多く、地勢的にもやや隔離された情況を作りだしている。また習俗の上でも多少の違いがある。
凡例
ここでは、昭和40年に作られた畑野小学校発行の文集『畑野こども風土記』(編集は同小学校長、中西鋼二氏)のうち、年中行事について書かれた解説・小学生の作文をもとに、 一部古老に聞き取りした内容を付け加え、土ヶ畑・広野・千ヶ畑を比較しながら、月ごとに行事をまとめている。また、稲作の生産暦に関わる各家庭で行なう行事についても、村の年中行事と不可分であると思われるので、併せて記載した。行事の説明での「現在」は、昭和53年当時のことを指す。
おおみそか〔12月31日〕
この日はシメナワを作る。朝から山へ行き、松やシキビを取ってくる。シメナワは、塩水で綯(な)い、七本、五本、三本と藁を垂らしながら作る。そこにウラジロ、松の枝、ユズリハを付け、家の門口に飾る。そのほか、井戸、池、蔵、三宝、床、神棚、仏壇、便所、乗物などにも付ける。松は、小さいものを根が付いたまま取ってきて門口に付ける。シキビは、新しい芽のところを取ってきて、仏壇のさしものにする。夕食には、年越しイワシと大根(丸く切ったもの)の味噌汁を食べる。
【解説・おおみそか】
大晦日。年越しの晩のこと。古くは、終夜起きて来臨する歳神をまつるために厳重な物忌み(=活動を慎んで心身を清める)をおこなったとされています。このことより、新年(正月)の行事は、この日の夕刻から始まっていると言えます。この日の夜、全国に火に関する行事(例:京都・八坂神社のおけら参り)が多いのも、神迎えとしての意味合いがあるものと思われます。
元旦〔1月1日〕
朝早く起き、家の主人が若水を汲み、お茶を沸かし、家中揃って新年の挨拶をする。この日、お雑煮を作り、こぶ茶、梅干しのお茶、みかん、くり、つくねまめ、つるし、こぶ、などを食べる。
【解説・元旦】
大正月(おおしょうがつ)。前月に山から伐ってきた松は、歳神の依り代として各家庭の玄関に飾られます。現在では環境保全の一環として門松の印刷物を貼っている家庭も少なくありません。正月行事は神迎えの行事だと言えますが、同時に各家各人が、新年を迎えて1つ年を取ることになります。今では親や親戚から子供たちに渡される「お年玉」は金銭ですが、本来「歳魂(としだま)」として、歳神(歳徳神)の宿る新穀の米で搗いた丸い餅を食し、収穫に感謝するという意味合いがありました。こちらのほうは正月に家族揃って食べる雑煮という形で残っています。
事はじめ〔1月2日〕
この日、土ヶ畑では、男子は、ゴウギと称する棒を作る。(ハゼの本で、直径4cm、長さ50cm) また女子は、紙で米袋を作る。(サブリの項参照)
【解説・事はじめ】
事という字面から仕事はじめという印象を持たれますが、コトは節(セツ・フシ)のような区切り、節目を表すことより、心身を清め神迎えを行なった後に、15日まで続く次の正月行事に向かうための節目として意識する日と解釈されると思われます。
年ふり〔1月3日〕
トシフルイ、とも言う。千ヶ畑、西山神社で行われる行事。各家から、シキビ3本(1~1.3m位)を一束にしたものと、モチ2個を神社へ持って行き、まず神主より、ダンゴを受け取り、モチと交換する。それと同時に、実の付いた杉の穂を、持参したシキビに差す。全員集まったところで、神主が「これから始めます」と言って、明方に向かって「大とし、小とし、さんみょうこがね、すずの稲つぼ、五尺のほたけ、えんげんわふわ、ふあ、ふあ(三回笑う)」と唱和しながら、そのシキビを左右に振る。このシキビは、苗代が終わるまで、田の水口に立てておく。以前は、土ヶ畑でも行われていた。土ヶ畑では、シキどに御幣を付け(これをフワイと言う)、ネギ(禰宜・村の最年長の男)が集まった衆に「そろいましたか」と言い、「そろいました」と答えると、全員で「うわ―」と三回唱え、神事が終わることになっている。千ヶ畑、土ヶ畑とも、年の始めに稲の豊作を祈る行事であるとされる。
【解説・年ふり】
元旦の項の解説でも触れましたが、正月は新穀の丸餅を食して1つ年を取る意味合いがあります。そして丸餅は歳神が宿る神聖な食物となっています。この行事の説明にもあるとおり、稲の豊作を祈る行事であるとともに、新穀に感謝して神迎えをした各家庭での行ないが、神社という格式の中で村全体の神迎え行事に転化したものではないかと考えられます。行事の中に登場するモチやダンゴの存在がそのことを意味づけています。
六日のとう〔1月6日〕
ガエルノトウ、カエルノトウ、とも言う。土ヶ畑で行われる行事で、その年の豊作を祈願する。講に入っているものが順に当番をつとめ、持ち寄った手肴(料理)を食べ楽しむ。八幡宮および元宮で祈願をこめることになっている。古くは、須知院内より、インギョウ(神主)が来て、各戸で祈祷をし、この地に半月ほど宿泊したようで、この人から各戸は、半紙半分大の神札をもらった。当日は、十一面観音を祀る御堂に講衆が集まり、まずそこの大黒柱に3カ処1月2日に作ったゴウギの先で、赤土(墓地の土)を押しつける。次に、各自が持参している神札にも同様、赤土の印を三カ処押し、終わりに各自の額にも同様、三カ処に赤土を付けた。また当番になった家の料理は、もらって帰って食べると風邪をひかない、と言われている。昔は、女が行ってはいけないことになっていた。カエルノトウというのは、農事中に殺したカエルを供養するため、と言われ、また祠の前で「があがあ」言うので、ガエルノトウとも言われている。
【解説・六日のとう】
この行事の中にカエルは出てきませんが、行事の名称として「カエルノトウ」と称しているのは、農事中のカエルを供養するという解釈がされています。しかし、カエルは古く『万葉集』に歌われ、また平安時代後期の作とされる鳥獣人物戯画の中にもユーモラスに擬人化されていることより、人々にとっては害になるというよりも、季節を感じることが出来る身近な存在だったと思われます。また田の神の使いとして扱われている地域や行事も見受けられます。今では行事自体が形骸化し、神事としての意味合いが強くなっていますが、やはり正月行事の中で行われていることから、新穀に感謝し、水田の安寧を祈願する、それも田の神の象徴としてのカエルを祀る、ということではないでしょうか。
七日正月〔1月7日〕
ナズナを畑より七本くらい取ってきて、モチを入れたお粥を作って食べる。
【解説⇒七日正月】
現在全国的に普及している習俗として「七草粥」の日がこの行事にあたります。一般的な意味合いとしては、正月からの1週間はご馳走を食べ過食気味な体を休めて、消化の良い食事(お粥)を摂る日という位置付けが考えられます。新潟県では、この日を「節句始め」と言って祝う風があります。つまり新年を迎えて初めての節句ということになります。一方、この日に一年の吉凶を占う「粥占い」を行なう所、歳徳神の依り代である門松を片付ける所、また前日の6日の夕刻から籠って7日に神事を行う所もあるようです。これらの事象を総合的に解釈するならば、1月7日は、正月行事のひとつとして、節目の日となっているのでしょう。また「7」という数は、正月と半年を経て同種の行事が対応している盆行事での日にちとも対照的です。
伊勢講〔1月11日〕
古くは毎月行われていたものらしいが、現在は、千ヶ畑では年4回(1,5,9,12月)、広野では年2回(1,12月)、土ヶ畑では年6回(1,3,5,7,9,11月)等まちまちであり、1月のみ11日で、他の月は1日に行われている。講に入っている者たちが、宿を順に受け持って、酒宴を張る行事である。古くは講田等もあり、それを積み立てて伊勢神宮へ参りに行っていた。現在でも伊勢参宮は行われている。
【解説・伊勢講】
講という組織には、さまざまな解釈があり「~講」というだけでは、その内容を歴史的に説明するのは難しいものです。この畑野町に限らず、周辺の村落にある、伊勢講、愛宕講、大峰講、秋葉講などは、村内の社寺のつながりとは無関係に、全国的に著名な社寺へ参拝するために結成された組織です。また全員が参拝することが難しいために代表者1名~数名が参拝する形態を「代参講」と言われます。このような信仰は、街道が整備され、社寺仏閣が巨大化した江戸時代に広く普及したものと考えられています。民謡『伊勢音頭』の1節「伊勢へ七度(ななたび)熊野へ三度(さんど)愛宕様(あたごさま)へは月参り」という歌には、参拝の頻度を表しているような解釈がなされていますが、愛宕神社への月参りについては、京都市の山上にある本殿に参る事に加え、神社から勧請されて地元産土神社境内にある小祠、灯篭などへの参拝も含まれるものと解釈できます。また熊野へ三度については、熊野三山を指している、伊勢へ七度については伊勢神宮内にある七つの小社(皇大神宮・豊受大神宮など)を指している、と言われていますので、必ずしも頻繁に参拝している様子を表しているとは言えません。ただし、ここ畑野町での事例にあるとおり、伊勢講を多い村では年に6回も開催しておるようです。信仰の頻度というよりも、その組織の結束を固め、また農事の合い間の慰労の場として機能していたと考えられます。
おひまち〔1月14日〕
千ヶ畑の全集落が輪番で宿をつとめる行事で、昔は1月、5月、9月に行ったという。当日は、般若心経を唱え、次のような真言のお唱えを言う。「おんおのり、びしゃち、びしゃおなりやち、ほどほどに、おなりや、おにはん、くにつるよはん、そもて―」。おひまち講、と称し、夜を徹して宴会をする。法常寺からは、酒を出すことになっている。自分の家や、親戚に不幸があって、穢れている間は、このおひまちには参加しないことになっている。
【解説・おひまち】
内容を見る限り、地元の法常寺の関係する仏教行事という体裁をとっていますが、やはり時期的には正月行事の一環で、かつて太陰暦の元では様々な行事が満月となる15日を中心として行われていたことに着目したほうが理解しやすいと思われます。つまり14日に行われること、夜を徹して宴会をしていること、精進潔斎が必要なこと、などを考え合わせれば、翌15日、小正月を迎えるための宵山的な行事だと思われます。全国的にも「オヒマチ」と呼称する行事は多く見受けられ、特に1月に集中しています。祭りの本番として15日、という点については、明治5年の改暦、その後の正月行事の多様化などにより、錯綜した状況があります。
縁たたき〔1月〕
正月の何日なのか、はっきりしないが、千ヶ畑では、古く興福寺(真言宗の寺で今は無い)で、ビンズリサンノエンタタキ、という行事があった。モチフジの木で縁を叩いて、縁先にビンズリサンが祀ってあり、その頭を撫ぜると、悪いところが直る、と言われていた。
【解説・縁たたき】
同種の行事は、京都府内伏見区にある安楽寿院で行なわれていた記録があり、また他にも三重県の正月行事でも報告されています。この行事・所作は、田に虫がつかぬように、との意味合いがあるようです。時期的に正月に行なわれるということは、夏場の「虫送り」のような行事とは違い、所作自体に虫を追い払う実効性はないものの、この年の稲や作物の豊作を願う予祝儀礼的な要素があると思われます。なお「ビンズリサン」という仏像があるように記されていますが、これは釈迦の弟子である賓頭盧(ビンズル)が訛ったもので、その仏像を撫ぜると良いとのこと、ここは仏教的な色彩が影響しているようです。
とんど〔1月15日〕
シメアゲとも言う。朝早く起きて、しめ縄を全部取り、村の四つ辻へ持っていって焼く。その時、モチを焼いたり、2日に書いた書き初めを燃やし天高く上げる。土ヶ畑では、正月2日に作ったゴウギの先にモチをはさみ、この日に作るアズキガユを重箱に入れ、それらを持って柿の木に向かい「なるかならんか」「ならなきってしまうぞ」と言い、柿の木の幹にナタで傷を付ける。そこへ持参したゴウギで、重箱のアズキガユを供える。午後、このゴウギを畑に立てる習わしになっている。
【解説・とんど】
左義長と呼ばれる地域もあり、他にも、トンドヤキ、ドンドヤキ、サイトウ等々地方によりさまざまな呼称があるようです。いずれも小正月の行事として、正月に飾り付けた注連縄や門松を地域ごとに集めて燃やす行事です。滋賀県などでは燃やすために木や竹で三方から組み、大層大きな設えのもとに門松などをもやし、ひとつの観光行事的に行なうところもあります。この15日に火を使う点に着目するならば、先述したように正月行事の対極にある8月の盆行事との類似性も見いだせます。つまり盆行事ではホトケを迎え、送り出す際の火(=送り火)、対して正月においては、歳徳神を暮れに迎えて小正月のとんどで送る火、という点です。柳田國男などは、そもそもホトケと神は、かつては同じであって、亡くなったホトケの精霊の浄化により、神としての性格を得ていくという説もあります。中世期に起こった神仏混淆(習合)の流れなどにも影響を受けたのかもしれません。
神主わたし〔1月15日〕
千ヶ畑、西山神社で、六人衆(次項参照)が集まり、鬼の絵、または鬼の字を的として弓で打つ行事である。5人の者が「めでたし、めでたし」と唱えたあと、神主わたし(次項参照)をした人の家で、御馳走を振る舞うことになっている。
六人衆・神主わたし
千ヶ畑、広野の二ヵ村には、六人衆というものがある。千ヶ畑では精進頭(1月26日の行事)を、広野では三日ノトウ(12月3日の行事、ミヤノトウとも言う)を、それぞれ終わり、永住している者のうち、年長者が六人選ばれ、六人衆となる。さらにこの中の一人が一年交替で神主となり神社奉仕を務める。神主になると、毎月末に神社を清掃し、「杉もり」と称する飯盛と五穀とを供える。さらに、雛祭り(4月3日)、男の節句(5月5日)、夏祭(7月14日)、秋祭り(10月14日)、三日ノトウ(12月3日)、二百十日〈千ヶ畑〉、二百二十日〈広野〉にも同様に奉仕する。この神主に選ばれて、 一年間の任期を果たしたうえで、次期神主と交替する式が、この神主わたしという行事である。〔土ヶ畑では、最年長の男子がネギと呼ばれて、神事に奉仕する。〕なお、二百十日と二百二十日の両日には、台風無事祈願の「お千度」を西山神社で務めることになっている。また氏子たちは、この神主役に年一回(12月3日)お初穂として、各戸米一升を出すことになっている。
【解説・神主わたし・ネギ】
この地で「神主」という呼び名は、現在の神社庁などが資格として与える神職の「神主」ではなく、村で行なう神事の取りまとめ役、代表者というものでしょう。そもそも古い時代にあっては、神職も僧侶も、特別な資格をもって職務をしていたわけでなく、その村の中での適任者がそれぞれ務め、場合によっては年齢階層順、輪番制などで、その役を担っていました。職業化するのは明治以降だと考えられます。ここ畑野町においては、千ケ畑・広野は「神主」、土ヶ畑は「ネギ(禰宜)」と称して、その年の神事の担い手の交代が行われるのです。
精進頭〔1月26日〕
ショウジントウと言う。千ヶ畑で、20歳以上の男子が、春頭(1月26日)、冬頭(12月26日)の各2人づつ、1年間肉食(主に牛肉)をやめ、精進する行事である。その間は、葬式に出たりけがれたことをしてはいけないことになっている。頭を務める期間は、春頭2人は1月26日より、冬頭2人は12月26日より、翌年の同日の1年間である。この間は、頭を務めるしるしの木札(将棋の駒型で表には「精進頭」、裏には「冬〈あるいは春〉頭番札」と書いてある)を門口に立てて、それを表すことにしている。頭が終わる日には、1年間精進を務め上げたことを、村内に披露する。これを精進上げ、と言う。小豆にズイキをいれたものと、杉もり(ご飯を盛ったもの)、これらをゴクと言い、村内全戸に配るのである。また氏神(八幡)にも供えて、後継ぎの2人と交替する。精進頭は、春頭、冬頭の計4人が、1年ごとに務めるので、40戸くらいの村内では、男子一生に数回務めることになる。村内では、この頭を済ませたものが、ほとんどで、それらの最年長者が、六人衆となる。頭を終わった時、氏神に供えたものを、この六人衆に分けることになっている。この時、ツトに入れたイワシ(一人当たり百匁)と土器に盛った五菜(ごまめ、ごぼう、人参、大豆)も分けられる。
【解説・精進頭】
精進というのは、精進潔斎のことを指し、一般的には、神事に参加するために身を清めることです。また「頭」というのは、ここでは精進潔斎をする該当者(人)のことを指していますが、一般的には、個別集団の代表者・リーダーといった存在です。民俗学での語彙の使い方としては、それらの人や代表者の他にも、当番になった「家」を指すこともあります。この千ケ畑では、その該当者が潔斎する期間が、1年間という長期にわたります。成人した男子が2名ずつ、年に2回の時期にわけて、合計4名が臨むこととなります。さまざまな制約のもと、決められた所作・行事を執り行なって行き、それを終えた者でなければ、前項にあった神職(神主)に就くことは出来ないのです。これを分類でいうならば、年中行事でありながら、通過儀礼のひとつと考えられます。人生には様々な節目に儀礼が存在しますが、千ケ畑における「精進頭」も、成人に課された行事だと思われます。
節分〔2月3日ごろ〕
豆を自分の年の数だけ食べ、年越しイワシを食べる。イワシは焼くまえに、頭を取って、ヒイラギの枝にさし、家の前や小屋の前にさしておく。
カミサン正月〔2月5日〕
この日、カミサン正月といって、正月と同じように、しめなわをなったり、モチをついたりする家もあった。
【解説・節分・カミサン正月】
節分は、暦の上では、立春の前日を指します。この日が旧暦(太陰太陽暦・明治5年まで適用)の、正月に近いことがあり、民俗学では、しばしば正月行事の性格を残す習俗が見受けられます。その象徴的なものとして「鬼はそと、福はうち」と囃しながら豆をまくものです。一般的な解釈からすれば、鬼=邪悪なもの=災厄、というイメージがあり、豆によって追い払う、といった所作が広まっています。ただし地方によっては、鬼を神の使いと考え「鬼は内福は内」と、どちらも迎え入れているところがあります(奈良県吉野町の金峯山寺など)。そして、年末の夜に歳徳神を迎え、小正月に送るという神迎え送りの構造を重ね合わせるならば、この来訪する鬼も、正月に訪れる歳神の一形態と言えるのではないでしょうか。そして神迎えの為の依り代(目印となる樹木)として、正月には門松を設置する。一方、節分では鬼を退散させるために付けるとされている柊の葉(鰯の頭を付ける)、これも正月に対応させるならば、一つの依り代としての性格を持つものではないかと思われます。鬼が邪悪なもの、という観念は、仏教の思想と関係していると考えられます。
これらのことより、2/5「カミサン正月」についても、先述したように節分の時期が旧暦の正月にあたるところから、かつては現在の2月初めに行なっていた正月の季節感を、神さんの正月として残しているものだと思われます。明治5年の改暦以降にあっても、地方都市などでは、現行の正月行事の諸儀礼を旧暦で行なっていました。地方にあっては、カレンダー通りに1月1日を正月として実施するようになったのは、昭和20年代以降のことでありました。
ひなまつり〔4月3日〕
ひな人形を飾って祝う。夜、その前に集まり、供えたごちそうを食べる。これをヒナアラシと言う。
【解説・ひなまつり】
暦の3月3日がひなまつりの日であることは全国的に周知のことですが、ここ畑野町に限らず近隣の京都府下の地域では、4月3日に行なうところが多くあります。これは旧暦の3月とは、約1か月の差があり、季節感を重視して旧暦の日程で実施しているのです。3月になれば全国的に行事のニュースが流れ、とくに鳥取県などで現在も行われている「雛流し」という紙製の人形を川に流す議長時は、このまつりの原初的な形態だと考えられます。この人型(ひとかた)の紙を流すのは、人に付いた災難を、人形に託して祓う、というところで、平安時代から貴族階級を中心として実施されている行事です。江戸時代以降、五月の節句とともに、これらの行事が華美になり盛大になった結果が今日のひなまつりだと考えられます。ただし歴史的に農民の階層にまで浸透していくのは明治以降だと思われます。特に、この人型による災厄回避の考え方は、農事暦の中においては、虫送りなどの害虫防除の信仰と深く結びつくものではないでしょうか。
さぶり〔最初の田植えの日〕
ワサウエ、とも言う。赤飯かバラズシを作り、三宝に供え、また田の水口へももっていく。このときに使う米は、新年の歳徳の米を混ぜる。米俵にしめなわを飾り、五段枝の松(ときには掛け軸)を立てて、これを金山(または杉山)といい、さらに栗等を供え、中座敷(台所の上手)に置く。また土ヶ畑で当日使う米は、1月2日の事始めに作った紙袋に入れた米を使う。米を炊く燃料には、事始めのときに取ってきたシデの木3本を、六日のとうの日に柴にして天井に収めるが、この柴で炊く習わしになっている。このシデの木は御幣をつけて、1月6日まで表口に立て掛けられる。
さなぶり〔田植えを終わった日〕
田植えが終われば、着物を着替え、ダンゴ、赤飯、モチ等を作りこれを食べて休息する。苗3把(うち、モチ米の苗1把)の上にフキを3本置き、その葉の上にモチ等を置き、これを三宝荒神に供えまたミョウガの根を3本供える。土ガ畑では、この苗のことを、コウジンナエ、と言う。
【解説・さぶり・さなぶり】
最初の田植えの日を「サブリ」、田植えを終わった日を「サナブリ」と言われています。両語に共通する「サ」という語には研究者の間では諸説あるようですが、民俗学の神祭りの構造から解釈するならば「サ」=「田の神」とすれば理解できるのではないでしょうか。つまり田植えを始める日に田の神を迎えます。その依り代として、田の水口(水を取り入れるところ)に御幣を立てて、また供え物を置き、お迎えをするのです。その時に「サ(=田の神)」が「フル=降る・降臨する」のです。そして田の神に守られて田植えが無事に終了すれば、神送りをします。「サナブリ」は「サノボリ」が転訛したものと言われており、四国や九州地方では「サノボリ」と言われて、「サ(=田の神)」が「ノボル(=昇る・帰る)」と解釈できます。かつては田植えは単に労働ではなく、神聖な儀式であり、それらが村の行事として象徴化したのが、産土神の境内で行われる「田の神祭り」「御田植神事」等々です。処によっては実際に苗を育てて田植えをするところ(大阪の住吉大社)もありますが、地方では、早乙女と称して少年や牛に扮した大人が田植えの真似事をして田植えの無事を祈願するものです。これは田植えの時期より前に行ない、予祝儀礼としての色彩があります。この「サブリ」「サナブリ」という田の神の去来構造として、春に山から降りてきた神が、行事が終われば、また山へ帰って、冬の間は山の神となる、という調査報告が九州地方でみられます。現在では、田植え労働から解放された慰労会、慰安旅行を「サナブリ」と言うところもあります。
稲の虫送り〔7月10日ごろ〕
土ヶ畑では、二番草が終わった頃、松明(3メートル位の竹)をかたげて、村のカミ(上)から田のはずれまで歩いた。暗くなりはじめたころから始める。「サネモリはゴショラク稲の虫を送ろう」と言いながら、鐘や太鼓を叩いて、村中のものが行列する。これは大正時代の終わりまでやっていた。
【解説・稲の虫送り】
現在のように防虫用の農薬が無かった時代には、稲の成長を阻害する害虫・鳥・獣などは、対処に困った存在であったと思われます。また自然災害などの被害に遭わないように願うのが常でした。それらを出来るだけ避けるために鳥追いや虫送りの行事を行ってきました。この畑野町でも「稲の虫送り」として村人が集まり松明を持ち、鐘や太鼓を打ち鳴らして虫を追い払います。実際の効果があったかは分かりませんが、人々の願いを形にして行事を行っていたということでしょう。
雨乞い
千ヶ畑では、ヒヤケ(水枯れ)の時、雨乞いをする。センゾクシバ(千束の柴)を作り、山の頂上で燃やし、太鼓を叩いて「雨降れおてんと、雨さげおてんと…」といいながら、火の周りをぐるぐる回る。またオセンドといって、氏神さん(西山神社)を千回まわる。土ヶ畑でも、山頂でセンゾクシバを燃やす。
【解説・雨乞い】
農耕、特に稲作にとっては水は不可欠なものです。ところが年により日照りが続けば、水田には致命的な危機となります。その際に、この地だけではなく、多くの農村では古来より雨乞いの祭りを行なってきました。その手法は地域によって様々あり、畑野町の事例のように山上で火を燃やして祈るものから、近くの滝つぼに鐘を投入したり、神社に籠り祈祷をしたり、等々、いかにして降雨を招くことが出来るかがこれらの行事の主眼でした。山上で火を燃やせば、その煙に混じった物質が雨の核となって降雨を呼び起こす、といった少し科学的な経験則などもあるのかもしれません。
ゆだて〔7月18日〕
土ヶ畑、八幡宮で行われる行事。拝殿で熱湯を桶に入れ、巫女が持った竹の葉をこれに浸し、湯がなくなるまで、振りまきながら舞う。また剣を持って舞う。巫女は、多紀郡の方から来る。児童は、鳥居もとに用意した石、約百個を、1個づつ取り、石段を登って神殿に投げ入れる。1個運ぶごとに竹の串1本をもらうことになっている。従来は、この竹串の数によって賽銭を分配していた。広野、千ヶ畑では、7月14日、西山神社で行われていたが、今は行われていない。土ヶ畑でも、現在では、巫女による行事は行われていない。当日は、全戸より御飯、副食を持ち寄り、酒を飲み昼食をすることになっている。
【解説・ゆだて】
湯立神事は平安期より神事として行われてきた行事です。これが発展して湯立神楽として芸能化している地域もあるようです。所作からすれば、沸騰した湯を振りまくことで、汚れを落とすという意味合いがあると思われますが、この畑野町では7月に行なっていることからして、前項の「雨乞い」行事の一環として行なわれていたものと推測できます。つまり稲の生育を祈願し、また水の確保(降雨)を期待して行ったものではないでしょうか。
盆〔8月7日~15日〕
7日は、墓掃除をした。この日は、雨天の場合でも、どんなことがあっても行なうことになっている。オハカ(埋葬する墓)、ラントウ(詣り墓)ともに掃除をする。土ヶ畑では、むかし8月7日には、井戸替えをした。 13日には、(ラントウがある)寺ヘホトケサンを迎えに行く。新ボトケの家は、オハカ(埋葬する墓)に迎えに行く。その時、ほおずき(提灯のつもり)、菓子、畑物(ナスビ、キュウリ)、線香を持っていって供える。13日は、寺の住職が来て、各家でお経をあげる(土ガ畑では、14日に行う)。供え物は、ズイキイモの葉と、アオガキ、ホオズキ、ウリ(キュウリ)、ナスビ、トウガラシ、ナンバを仏さんの数だけ供える。新ボトケの家は別に祀る。また縁側の隅に、ガキボトケを祀り、供え物は同じである。土ヶ畑では15日の朝早く、千ヶ畑では15日の夜、タイマツ(オガラの束)に火を付け、近くの川へ供え物を流す。今ではガキボトケの数の分だけを、川に流している。
【解説⇒盆】
盆行事、仏教では、盂蘭盆(梵語・Ullambanaウラバーナ:甚だしい苦しみ)を救済する行事と説明されています。これは、餓鬼の世界に落ちた亡き母の苦しみを救うために、7月15日の飲食で衆僧を供養すれば、七世の父母の苦難を救える、という盂蘭盆経の説に基づいています。主に、村の寺院で檀家が集まり施餓鬼法要という形で行なわれています。一方、民間では、盆というのは、先祖の霊を迎え、祀り、送る、という、正月行事の神迎え神送りの構図と対照的な行事です。13日にホトケサンを迎え、各家では様々な夏らしい供え物をして祀ります。また15日になれば、川へ供物を持参して送り火をしてホトケサンを送ります。京都市内で毎年行なわれている大文字山の送り火の行事は、こういった民間の行事が巨大化したものだと思われますが、京都市内においても、昭和30年代ころまでは、各家でお祀りした先祖の霊を送り出す際には、加茂川の橋のたもとには、たくさんの供え物が置かれていたそうです。その後、京都市内での環境美化の観点から無くなっていったといいます。この正月と盆、一方は神(神社)であり、一方はホトケ・先祖・御精霊(仏教)という信仰主体の違いがあるものの、これらは日本に神道や仏教が流布し、民間で行なわれていた行事が、それぞれの色彩、性格を特色づけて発展した結果だと言えます。正月の項でも解説しましたが、柳田国男などは、正月行事も盆行事も、本来は、祖先の霊を祀る行事であったと説明しています。
いまでも8月15日ころの、東京中心のテレビ局から放送されているニュースで、アナウンサーから「ひと月遅れのお盆の帰省客が・・・」という言い出しを聞くことがあります。この「ひと月遅れ」というのは、7月15日が本来の盆行事の日程(実際に東京を中心とした関東圏では7月がお盆)ではありますが、地方(ほぼ全国)では、旧暦の7月の暦に置き換え、新暦では一ヶ月遅れの8月に行なっています。このことは、戦前までは正月行事は2月ごろに行なっていたこと、3月のひな祭りを4月に行なっていることと同じ構図だと言えます。現在では、8月が学校の夏休み期間と重なっていることなどから、東京で住む家族が、生まれ故郷に帰省する契機として「盆」をとらえることが常態化し、お盆と言えば8月、という認識が出来上がっています。
サンヤラ〔8月24日〕
サンヤレ、ともいった。土ヶ畑で行われる少年のみの行事。昔はオガラの束を作らたものらしいが、今では径4~5cm、長さ25cm位の柴の束を一戸につき、平年は12東、閏年には13束を、子供たちが各戸をまわって集める。その柴を円山(マルヤマ・わんを伏せたような小さい山)の頂上に積みあげる。愛宕山へ火を供えるものだという。夕方、ネギからマッチをもらってきて火縄につけ、この火を、積み上げた柴に点火する。この時、鉦と小太鼓とを打ちならし、「西のお―くのサンヤラじゃ」と何度も叫び、火を拝むことになっている。この日、各家ではボタモチを作ることになっている。またこの行事に参加したものでなければ、11月に行われるイノコの行事には参加資格がないとされている。昔は、七日盆のころからサンヤレのころまで、子供たちが、木や葉で簡単な家を円山の付近に造り、弁当を食べたり、遊んだりしていた。
【解説・サンヤラ】
土ヶ畑村だけの行事です。この時期と山上で火を燃やすということから、京都市から若狭方面の主に山間部の村落(京都市雲ヶ畑・久多・花脊・広河原など)で行なわれている「松上げ」の行事との共通点が見受けられます。ただし当地では、オガラの束、柴などで点火するところは、松を寄せ集めて大々的に燃やす京都市の事例とは、やや規模が小さいものですが、子どもの行事であり、また周辺が山間部で狭隘な地形から、火災に発展せぬような規模になっているのではないかと思われます。そして愛宕山に対して火を供えると書かれていることより、山火事を避け、火防の愛宕神社を祀る、という意味合いがあるのでしょう。亥ノ子の行事と関連づけた決まり事がある点は興味深い点です。
虫送り〔8月24日〕
広野では、麦藁で馬(長さ30cm位)を作り、竹にぶら下げ「送った、送った、サネモリの御大将」と叫びながら、畦道をねり歩き村の境まで行くことになっていた。また各戸より、手肴を持ち寄り酒盛りをする。
【解説・虫送り】
同じ畑野町でも土ヶ畑は7/10、そして広野が8/24と、1ヶ月以上の差があります。8月末といえば、いよいよ稲刈りを翌月早々に行なうところもあり、虫送り、害虫の駆除としては、やや遅いところですが、いずれにしても実質的な効果を期待するというよりも、来たるべき秋の収穫作業前に、村人がそろって酒宴を張り鋭気を養う、といった意味合いが強いものと思われます。
ほうぜ〔9月15日〕
土ヶ畑では、八幡宮へ集まり、各自持ち寄った料理を分け合って一日を楽しむ。古くは、ズイキイモの御飯を持っていくことになっている。
【解説⇒ほうぜ】
若狭地方に「放生祭・ほうぜまつり」という行事があります。その地域柄、海で獲れた魚を供養して祀るもので、仏教寺院で放生会として、動物を供養する行事と同様のもののようです。この読みがおなじ「ほうぜ」なので、共通点があるかもしれませんが、行事の内容的には、この地は山間部でもあり、違うようにも思えます。秋の収穫時期が近いことがあり「豊穣・ほうじょう」を祈願する、といったところが近いかもしれません。
秋祭り〔10月13日〕
土ヶ畑では、八幡神社で7月18日のユタテと同じことをする。
刈りぞめ
稲の刈りはじめの日は、三宝さんを掃除して、かやく御飯を供える。
刈りあげ
稲刈りが終わったら、鎌を洗って、かやく御飯をそれに供える。
庭あげ
土ヶ畑では、ウススリ(籾すり)が終わると、新穀のもちを自に供えた。千ガ畑では、大きなボタモチを、 一升マスに入れ、納屋のトウミの上に台を作り、供えた。
秋じまい
麦まきの終わった時、鍬を掃除して祀る。
【解説・刈りぞめ・刈りあげ・庭あげ・秋じまい】
それぞれ秋から冬にかけて、収穫の様態ごとに、神に感謝する行事です。村全体で行なうものではなく、各家庭ごと、その収穫の節目に合わせて慎ましく行なっています。つまり、ここで祀る神は、田の神であり、収穫の神、さらに発展的に解釈するならば、先祖の精霊といえるかもしれません。各家庭の事情により祀る日に決まりはありません、それだけ各家にとって身近な神だと言えます。
イノコ〔11月亥の日〕
11月に亥の日が3度ある月は、中の亥の日。2度ある月は、後の亥の日に行う。夜、男児のみが藁を東ねた棒(ツチ、あるいはイノコといって、ズイキの軸を入れることもある)を持って、村内の家々を廻り、「イノコのぼたもち祝いましょ、 一つや二つで足りません。おひつにいっぱい祝いましょ。倉にも千石祝いましょ。」と唱えながら、土を叩いたり、家々の戸を叩いて廻り、お祝いのお金をもらう。土ヶ畑では、もらったあと「福の神、舞い込め、舞い込め」といって帰る。使用が終わったツチ(イノコ)は、クズヤ(藁葺き)の屋根の上に上げる。この日、各家ではボタモチを作る。土ヶ畑では、「この日は大根が大きくなるかめ、畑には入つてはいけない」というが、千ヶ畑では、「この日だけは畑を荒らし回っても咎められない」という。
【解説・イノコ】
オゴトツイタチ〔12月2日〕
夜が明けるまで、家族全員起きて、赤飯を食べたり、みそ漬けにしたナスビを食べることになっている。このナスビは、カラスが鳴くまでに、早朝食べると、川へはまらないといい、川へはまつてもすぐに浮くようになるとも伝えられている。
三日のとう〔12月3日〕
ミヤノトウ、とも呼ばれる。広野で、村内に昨年12月4日以降に生まれた男児を、2人まで氏子として登録する行事。氏神、西山神社で行われる。その期間に1人しか生まれなかった時は、次の1人が生まれるまで、この行事は行われない。また神事は、神主が奉仕する。祝ってもらう家では、モチを2升ついて、氏子全戸へ2個づつ配り、公民館で、煮しめ、酒を振る舞うことになっている。昔は、ぜんざいを作つたといわれている。
【解説・三日のとう】
別に「ミヤノトウ」と言うことから、「宮の頭」という意味だと思われます。実施日が3日だったことと語感が似通っていたので「三日のとう」になったのでしょう。別の項でも書きましたが、「頭・とう」というのは、人または当番となった家のことを指します。この行事においては、新生児が氏子として承認される意味合いから、その子ども本人または家のことを「とう」としているのでしょう。新年を迎える1か月前という時期に、氏子としての要件を持っておく行事だといえます。
おひたき祭〔12月8日〕
針供養の祭り。稲荷にバラズシを供える。
ことはじめ〔12月13日〕
神棚を藁と笹で作ったホウキで掃除し、ダンゴを作り、大根の輪切りをミツ汁に入れ、神棚に供える。また一年間に使う鍋輪、鍋つかみを新調することになっている。
[伝承者]
千ヶ畑 山内茂雄(明治34年生まれ)
土ヶ畑 滝上兵三(明治44年生まれ)
土ヶ畑 今西利一(明治44年生まれ)
以上3名の方には昭和53年当時、聞き取り調査にご協力いただいたことを記して御礼申し上げます。
<参考文献>
『カラー図説 日本大歳時記』昭和56年 講談社
『日本の祭り事典』平成3年 淡交社
『日本の民俗 京都』竹田聴洲著 昭和48年 第一法規出版
『日本民俗事典』大塚民俗学会編 昭和47年 弘文堂
『日本民俗大辞典』福田アジオ他編 1999年 吉川弘文館
『総合日本民俗語彙』民俗学研究所編 1955年 平凡社
<参照ホームページ>
国立国会図書館デジタルコレクション
「農業全書」
「難波鑑」
「日本風俗図絵」
東京都立図書館デジタルアーカイブ
https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/top
「江戸の歳時記」