第4章 民俗研究の歴史
民俗学は、若く新しい学問であり、学問体系を完全に樹立したとは、必ずしも言えないかもしれない。これは、民間在野の学問として終始してきた、一つの学問分野として形を整えたのは、19世紀後半のことで、明治以後、我が国に輸入せられ、柳田氏の働きで大きく進歩し、独自の発達を遂げたのである。鎖国当時から西洋と没交渉であったけれども、その基盤は準備されていた。江戸時代の学者の中には、民間伝承の中に古族の存在を感じとったものがいる。その点で挙げられるのは、元禄の西川如見「町人嚢」本居宣長「玉勝間」。彼らは別段、民俗の収集比較やそのsocietyを結成したわけではないが、文献に載らざる事への関心は、近代民俗学の先夫と言える。
★note
西川如見 ; 天文学者、歴史学者
儒教的でない実証的立場をとった
経世家として有名
吉宗に招かれ「日本水主考」を著す
「町人嚢」-町人の町人たる心得を記した
↓
都の言葉にも片言多し、田舎の言葉とて・・・・
本居宣長
「玉勝間」(田舎のいにしえの残れる事)
はふりのわざ、とつぎのわざ、古きおもしろき多し
あまねくたずねあつめ 後の世の考えたる
彼らのセンスは、近代民俗学のさきがけとなった
近世後期に続出した好事家の随筆、紀行は、各地の民間風俗に目を向けることとなり、その結果であった。また幕末の屋代弘賢が「古今要覧稿-風俗部」の資料集めに、冠婚葬祭、俗信などに関して、「風俗問状」を書いたことは、今でいうアンケートの民俗である。今日の民俗が、日本において意義あるものとされ、学史上、画期的なことである。
★note
江戸時代後期
物好きが旅行を始める(道路、宿泊施設の発達と関係)
土地先々の風俗→随筆、紀行文が多く書かれた
吉川弘文館「日本随筆集成」
天(あま)信景「塩尻」 随筆
喜多川守貞「守貞慢稿」随筆
松浦静山「甲子夜話」 随筆
橘南渓「東遊記」「西遊記」 紀行文
古川古松軒「東遊雑記」「西遊雑記」 紀行文
最近有名なもの
菅江真澄「真澄遊覧記」東北地方40年間
天明~
こまかく、その土地の民俗を記した
見どころ―民俗調査にあたることで充満している
近年、重要視されている
屋代弘賢
風俗部において、質問を統一項目で収集(未完成)
東北~九州各藩
「日本庶民集成」に収められている、今でいうアンケート
例) 七月 星まつりのこと
鎖国時代においても、独自の立場で、このように指を染めた学者が居た
↓
ただ明治以後の民俗学の培養液となったとは言えない
西洋近代民俗学の源流は、18世紀末~19世紀初 にかけてのドイツ・ロマンティークの運動で、民俗の中に歴史を見る態度として出発した。そこでは歴史家の Justius Moser 、哲学者の Herder,John Gott Prieduon 、言語学者・童話で有名な Grimme 兄弟が挙げられる。19世紀は、史学の世紀と言われ、文化史学が勃興してくるが、豊かな人間性への省察が、従来無視されてきた民間粗野の伝承に目を向けられてきたのである。
文化史、民俗学ともに、近代的自我に発し、民俗学が広義の近代史学の一環であることは、それが発生的に成った性格である。江戸時代の古風、古族への関心は、国学系統の人に多かったのは、ヨーロッパの民俗学の中心が、ドイツの民俗主義的ロマンチシズムを母体したので、一脈相通じるが、民間伝承は、本来的に歴史的性格を持っていることによるのである。
★note
ヨーロッパの民俗学のはじまり
西洋-ドイツ(18c~19c)
思想-ロマンティーク運動の一環として起こる
① ユスティウス・メーザー(1720~92)
主著「Osnabrückische Geschichte」
オスナブルの歴史
↓
小さな村 農民の社会経済的観察
歴史・経済学の発展に影響
「Patriotische Phantasien」
(愛国的幻想)
名もなき村の一つにドイツ民族の歴史が灯っている
ドイツの歴史・評論家
フランス革命 (すべてが合理主義)←→ロマンティーク
② ヘンデル (=ヘルダー)
哲学・文学者・思想家
カントの講義を聞き、ゲーテに影響
ドイツ精神文化の強力な推進者
主著「Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit」
(人類の歴史哲学の理念)
歴史そのものについて考察を加えた
③ グリム兄弟
Jacob Grimm、Wilhelm Grimm の二人
ドイツの有名な言語学者
「Deutsche Grammatik」ドイツ語の文法
「Deutsche Worterbuch」ドイツ語の辞書
「グリム童話集」
↓
正式の名前は「Kinder- und Hausmärchen」
(子供や家庭の童話)
L絶大な価値を見出した
→創作ではなく、当時、ドイツの無知な農民、田舎で伝えられていた
童話(口から口へと伝えられた話)を集めた
膨大な量
ドイツ民族の精神が宿っている
普通の家庭に伝えられている粗野な言葉に価値がある
その他「ドイツ神格学」「ドイツ語の歴史」
〇彼らは偶然に出たのでなく、出るべくして出た深い理由がある
18c~19cの時代
大陸→フランス革命(共和制・近代的合理主義)
イギリスの産業革命(大工場での工業)
海外進出
近代資本主義―英・仏で始まった
これら対し、ドイツは、はるかに遅れていた
L統一出来ていなかった
対外的に英仏に対抗できない
↓
ヨーロッパの発生はドイツである
というプライド
↓
過去に遡らねばならない
古代ヨーロッパ文明は、キリスト教とゲルマン
19世紀ごろから文化史
→人間の「自我」が作ったもの
近代的合理主義=「理性」を重んじる
人間の理性はどこまで理性的たるか(だとするか)
→のカント 理性批判
人間が中心課題となってくると
今までの英雄とか有名な人物だけでなく
無知な連中も
歴史の中に市民権を持ってしかるべきものである
〇「広い意味での人間の歴史 = 民俗学」という概念・性質・資質
文明開化の風潮で出発した明治維新の日本は、伝承をethnography、民俗誌として捉える見方が強く、日本人をみること、外国人をみるのと大差なく、日本の伝承をみるのに、あたかも外国人が日本人をみるような態度で臨み、民間伝承の歴史性など思いもよらず、普遍的に人類の一環としてみるにとどまった。
民俗学は土俗学とか俚諺学などと呼ばれ、日本人に関する意識は少ない。地方に珍奇を求むるのをコトともした。しかもその中で、明治19年、東京人類学会の建設、機関誌、人類学雑誌は、一時期を印した。そこでは、後の民俗学、民族学、形質人類学、考古学、言語学などが、未分化に雑居して、これら諸学の母体を成したものとして、記念碑的意義を持っている。ダーウィンが生物学の上で使ったSurvivals(残存)の理論、英国の人類学者Tylar(タイラー)によって、未開社会文化に適用されたが、明治の先学は、これを日本民俗に適用し、英国風の進化論の文化に対する雑ぱくな適用が知られている。
明治の後半後は、哲学だけがドイツ流で、他の文化科学は、英国風の色彩が濃く、英国風なエスノロジーに包まれた、日本のフォークロアが盛んであった。また、そうでなければ、往々にして、旧来のように、漢土伝来説で片付けられた。すなわち、民俗研究は、なお民族学の中に埋没し、日本民俗を、日本自体独自のものとして解釈することは、なお次の時代を待たねばならなかった。
★note
民族学ー英国が中心
L海外に植民地を持つ
未開社会の知識が必要である→民族学
チャールス・ダーウィン 生物進化論
生物の存在
原始からの各段階が残存している
環境に対する適応
人類の人種の差別を越えて、形質上の違いをならす
→旧約聖書によって作られた説を否定
生物学的理論に止まらず哲学にも影響
19世紀 ヨーロッパ以外の土地
異質の人類社会
生物進化の理論に当てはめられた
ヨーロッパ人種=最も進んだ形
Tylor タイラー Sir Barnett.Edward
進化論的人類学
宗教の起源 アニミズム 原始的段階
宗教の発展段階 Lキリスト教
国家を問題としない
ヨーロッパ人・・・人類の一要素
民族差別は出てこない 人類的
↓
日本人→人類の一環としてみる
明治19年 人類学会
人類のことなら何でも取り上げる
日本民族という考えはない
Frazer フレイザー Sir Garmes
茅の輪くぐり(6月1日ごろ)
→未開社会の樹木崇拝によって、その意味を解く
◎明治前半期は、西洋の学風を受け入れる時期であった
柳田国男は、西洋の理論を十分に消化しながら、豊富な日本の民間伝承に目を向け、その傘下の学者とともに、次第に日本独自の民俗学の樹立へ歩み寄ってきた。日本民俗学の父と言われる所以である。
その活動の初期、明治42年に公刊した『後狩詞記』、翌年『石神問答』は、きわめて具体的問題を扱いながらも、その後の日本民俗学を方向づけた記念碑的仕事とされている。前者は、狩りの道すがら、九州宮崎県東臼杵郡椎葉村で、村長から聞いた猪狩りの古実を中心とする山村生活の伝承と、同じ村の旧家に伝わる狩りの伝承を世に公にしたもので、彼は、そこで、こうした鄙びた山村生活の伝承が、他の土地のものと合わせて、注意されることによって、やがてこれを支えてきた山人の信仰の本質が明らかにされるのを期待したのである。
そこには従来のいわゆる土俗学、俚諺学にはみられない多くの特色があるが、山人の生活に対する深い愛情が、とりわけ注意される。当時は、山人が真剣に保持してきている俗信、禁忌、伝説などの伝承は、迷信扱いされ、この打破が叫ばれたり、好奇の目で見られたり、一向に同情無度はされず、エスノロジカルな目で、国内の伝承を見る立場からは、僻村の土地の珍奇な風と見えるものを、彼は、地方生活の諸国様を地域に関連させ、浮かばせることによって、それぞれの郷土生活の根本を支えている心意伝承、しかもその日本的心性、歴史性に相当することが出来ず、取り扱う資料が、腰を落ち着けた旅をしての採訪による資料でなかったこととも関連し、常民生活の愛着も夢想だにしなかった。
この著書・小冊子、しかもその内容は、柳田の創作ではなくて、埋もれてきたものを発掘紹介しただけのものであるが、こういうものを、こういう仕方で取り上げたことが、独自の新分野を拓いたものとして、画期的な意義を持っていた。
★note
柳田は宮崎県の山奥に、どうして行ったのか
柳田国男ー島崎藤村・国木田独歩・田山花袋
弟・松岡静雄 ミクロネシアの民族
弟・松岡映丘
兄・井上近泰
由良子崎(ユラコザキ)に椰子の実が流れ着いたのを柳田が見て
他の文化も海を渡って来たはずである(インスピレーション)
↓
島崎藤村に伝え、詩をつくる
東大の法学部卒 農商務省の役人 参事官(30代)
朝日新聞論説委員
国際連盟の委員ージュネーブ
椎葉村ーひえつき節の本場
狩り、木こり ー 山を生活の場としている 山人(やまびと)
村長の家に泊まる
猪の狩猟 さまざまの古実(作法)がある
その他「山立根元記」
獲物=山の神を祀るために狩がおこなわれる
当時の一般的インテリ→迷信である、打破すべきである
柳田=ここだけの迷信ではないだろう
他の土地にもあり
かつては日本全土にあったのでは
残存の考えもあったが
日本民族としての考えを持っていた
後狩詞記ー著書ではない・事実を書き出した
何かを書き出した
今までの人類学的民俗学から決別して
新しい民俗学を打ち立てていった
翌年、岩手県遠野郷で山の神のまったく違った形を見つけた
『遠野物語』
日本民俗学は、上述したとおり、各地の民間伝承を方言、つまり郷土の言葉によって採集比較することを、方法上の一大特色としているが、そういう特徴への兆しは、これらの書において十分に現れている。ひとつの僻地の言葉とみられるものも、国内のあちこちに、なお隠されているであろう、類語との比較によって、それが実は古い日本語の名残にすぎぬものであることを示す要因が潜んでいる。西南日本の生活を描く『後狩詞記』に対し、300数十里隔たった上閉伊郡遠野郷に伝わる山人や神にまつわる伝承を集め、翌年出版された『遠野物語』には、たとえば西においてのニタという水たまりが、東北でもニダと呼ばれ、もとは国内一円に使われていた古語が、時とともに消滅しながらも、辺鄙なところに、いつまでも残存してきたと解せざるを得ないことを気づかしめたのは、その一つの実証である。
『遠野物語』には、オシラサマ、ザシキワラシについての伝えが残され、後の民俗学研究を刺激した。地方民間語を窓として、日本民俗、常民生活の変遷、伝統をみるために残したのは『石神問答』。シャクシ、シャクジなどについて柳田は、疑問を出し、論証を進め、山中わらうが、石神がもと存在したとするのを反対し、杓子は延喜式にみえる、サクの神から、シャクシと変遷し、道祖神的なものであるゆえに、石神が祀られるようになったと説明した。まさに重出立証学の先進、日本民俗学の躍如たるものであった。
★note
『遠野物語』佐々木喜善の話をまとめて出版した
遠野郷ー明治ころは僻地であった
「オシラサマ」
明治43年 はじめて聞く名前であった
その後、東北地方にみられる盲目の口寄せ巫女=「イタコ」
L神懸かり
口寄せに使う 桑の木に顔を描き、着物を着せる
それを遊ばせて 神懸かりになっていく=「オシラサマ」
「ザシキ ワラシ」東北地方 家の神
↓ Lワラシ=童子(童女=メラシ)
広く家
家にはザシキワラシが住んでいて姿を見せない→家の隆盛
姿を見せると、家が衰えていく
遠く離れた地域同士で共通のことば、考えがある
↓
かつて日本全土に残っていた
中央=高度の知識文化の影響(新しい)
周圏理論への先駆けとなる
まず最初に問題になるのは「言葉」である
民俗語彙
山中笑とのやりとり『石神問答』
Lシャクシ等の地名は石神が立っていて、そこから名前が出来た
柳田の説
L名前のほうが先であった
物はなくても名称だけは残っている
村の境 郷の境に位置している
↓
延喜式に出てくる
神話のサカイノカミ→サクノカミ
→村のサカイ(境)にまつる
石を御神体とした
各地の名称を探し出した
今、各地で地名として残されている言葉
オリジナルな言葉ー遠く平安・奈良にさかのぼることができる
方言文化ー遠い時代のものである
当事者も知らない隠れた歴史を物語るものである
このように方言に対する深い関心から、地名、人名に深い注意を寄せ、一つのところに伝わる伝承が決して日本で珍奇、特殊な唯一のものでなく、ようするに日本全体にあったものの残存に過ぎない、ただの伝承自体に意義があるのでなく、そういう伝承をもった過去の日本人の気持ちや生活態度、それを必然ならしめた分厚い常民層の問題とした。
それをよく示すものに、伝説研究がある。これまでの伝説は、ある土地の固有名詞に関係し、歴史的にそこで特殊な事跡を残した記憶が語り継がれているかのように考えられている。普通の歴史研究と同じ次元で、それに史料的価値があるかないか、ということが問題とされてきたが、柳田にとって、伝説をそのように解することは、まったく無意味である。
伝説では固有名詞そのものは問題ではない、こういう固有名詞が付けられる前に、何か普遍的な言葉が先にあり、その言葉を含んだ話し方のパターンは、決して一カ所に特有でなく、あちこちに共通するものがあった。日本人が、もし普遍的とした、例えば信仰に関する習俗が先にあり、その説明話が行なわれ、それが言葉の連想で、それが固有名詞を吸着したものであるとし、伝説はいままでと違った史料価値を与えられることになった。
★note
伝説・・・歴史上の有名な人物が登場する
おそらく、その人が、ここにやってきたのだろう
それが語り継がれてきたのだろう、と考えられてきた
(中央の記録には無い)
↓
これまで
例ー各地に弘法大師がやってきた
自ら名乗らない旅をする乞食坊主
この場所は日旱(ひでり)であるので、井戸を作られた
そこを、コウボウイド(弘法井戸)、タイシイド(大師井戸)と呼ぶ
例ー坂上田村麻呂が立ち寄って、旗を松に縛り付けられた
その松を「旗立ての松」と呼ぶ
例ー八幡太郎吉宗が源氏の白旗を立てた松である
↓
さらに多いのは、各地の寺の草創伝説
→奈良の行基菩薩が作った~
・歴史上の人物が果たして、ここにやって来たのか?
柳田のアプローチの仕方
各地の伝説の例を収集
東北~九州 一円にわたって弘法大師の話
共通点
・乞食姿の旅僧
・11月23日の晩にやってきた(各地でどこにでもある)
・その晩は大雪が降った
・僧を泊めない婆さんと、やさしい婆さんの話
→泊めてやるー何かお礼をしよう
・日でりで夏に困る村に井戸があれば良い
・僧の立てた杖から、こんこんと水が湧いてきた(弘法大師井戸)
同じ日に全国に回れることは不可能=弘法大師の事実は無かった
【結論】
ある土地では、聖徳太子、自覚大師円仁であることがある
タイシ、ダイシ、太子→尊い人の子ども
伝説の共通点として何か普通の人間には出来そうにもない人物
が登場するー奇跡的要素を含む
↓
元に信仰的要素がある→零落→形骸化して残った
太子=ミコ(巫女)
11月23日 新嘗祭:毎年行なわれる
新穀を神にささげる日
明治以後は新暦、以前は一月遅れる
今で言えば12月20日以後 クリスマス
冬至である 日が短い
クリスマス→サンタクロース:煙突から入ってくる
西洋での冬至=太陽が死ぬ・・・それが復活する
穀物を与える元は、太陽と地母(穀霊)である
毎年、死んで、復活する=冬至の日
穀霊の復活ーキリストの復活
↓
今のクリスマスのイメージが出来上がった
日本の場合
米ー秋にとれるる 冬 秋
収穫の祭りー12 11 10 ← 9 8 7
仲冬 初冬 1月遅れ
「物忌み」の期間を置いたのだろう
旅姿の僧
この日に各村で収穫の祭りをし、その神の姿(=僧)であった
聖徳太子 等、無知な村人の知る名でない
知識をどうして手に入れたのか
誰かが教えたのか?
後の民俗学の段階で解きほぐした
古代末~中世 ー 仏教の民間流布
民間を旅して歩いた僧
・弘法大師の物語を語った者
・弘法大師→語られた者 →ダブってきた
大正2年、柳田は、自ら主宰して、雑誌「郷土研究」を発刊したが、ここでいう郷土研究とは、郷土そのものの研究ではなくして、郷土生活を通しての日本研究を志した者である。そのための史料の調査研究を要した。
柳田が、その第1巻に出した「巫女考」は、神社付属の土着の巫女とは別に、口寄せを生業とする、旅する巫女、むしろ、それらが先行形態で、それが近世に土着するに至った経路で論じた。
第2巻「毛坊主考」は、俗体の僧侶が、地方村落生活の上で重要な役割を演じ、念仏、鉦叩き、虫追い、御霊祭などを主宰し、次第に村の特殊人としての宗教人となっていった事実に注目した。
また第3巻には「柱松、勧請木」で、霊の依りましに関する研究をし、その後も、これらの諸説に関する伝説を極めた。
これらは民間信仰史、宗教社会史というか、従来の歴史研究が、思いもよらなかった、著しい新分野の開拓であった。歴史に接触して、古代の社会、宗教の究明に大きな通路を拓いたのである。
★note
雑誌「郷土研究」
郷土を通して日本民俗を研究
足がかりとしての郷土
「巫女考」ミコ・・・有名神社のミコを考えやすい
L歴史の最終段階
・旅渡らいの中に暮らしたミコ
・口寄せ(生霊、死霊にのりうつる)を生業
→を事実にして論証した
東北地方に残る「イタコ」
「毛坊主考」
飛騨を中心とした伝承 白川
かつて日本の村落には、頭百姓筋のものが
一面では僧侶の役目を果たしている
仏教が日本に行き渡る過程において 非僧非俗・半僧半俗
→中間段階
やがて柳田のこの考えは
日本の宗教の歴史の上で重要な役割を果たした
仏教の民間信仰ー今まで
さらに近づいて見てみると
鎌倉 浄土真宗ー親鸞=「愚禿」親鸞
Lはげ
↓
後の民俗学の発達によって「カムロ(毛が生えている)」と読まれる
本願寺 等、どうして出来てきたのか
→近世(江戸)に爆発的に増える
道場ー村人が集まって行事をする、リーダー=毛坊主
L寺ではない
↑
本願寺の末寺として認めたため増える
・福井県若狭海岸のひとつで、お寺の苗字「道場(みちば)」多い
「巫女考」
旅渡らいのミコ 文献には現れてこない
7月24日 津軽一円のイタコが全部集まってくる<恐山>
旅から旅へ、口寄せを行なって歩く女性
もの、あるいは人を通じて、あるいは土地の伝説を通じて、古代的原始的宗教心意を探求することは、さらにカッパや馬蹄石(ばていせき)に関する伝説を国内に広く求めて「山島民譚集」となり、神を助けた話において、日光の神戦伝説からはじめて山の神信仰に至り、その話を流布した木地屋のことを扱い、また「赤子塚」の話では、土中誕生の伝説から、境ま神の信仰を辿り、古代日本人の霊魂転生観念との関係を論証したが、ともに伝承による信仰的心意の探求の線に沿うものである。
★note
さらに前進して
「山島民譚集(さんとうみんたんしゅう)」
河童駒引ー馬を引きずり込む話
それにまつわる種々の話
傷につける薬ー金創こう
馬蹄石(ばていせき)
<柳田>河童=内水帯に河童の住まざるところなし
動物学上の存在にあらず
民俗学上の動物である
昭和25年 柴田先生と長崎、平戸
イモサキという所の神主・河童がいる姿は見たことがない
福井県 若狭
漁業関係の古文書ー河童の詫び証文
河童(=水の精)→馬を引っ張り込む話
生け贄の信仰・沼に馬をささげる
↓
零落していった河童となった
馬蹄石ー神聖視する
馬のひずめに似た石
馬に関係したもの
<図>水がたまるー霊視している
これだけでは分からない
石(神霊の依りどころ)と馬
→水の精が、馬の生け贄を求める
「平家物語」ー源平盛衰記
L 読む文学でなく 琵琶法師を聞くものである・語り物
名所(聞き所)がある
宇治川の先陣争い、名馬の墓所が各地に多数ある
摺墨の生まれたと言われる場所
水と関係のある土地
水のある所=名馬の生まれる土地
赤子塚
「炉辺叢書」の中に含まれている
L 柳田が発刊した今の文庫本のようなもの
↓
各地に赤子塚の伝説が残っている
・赤ん坊を埋めた塚
・地面の中から赤子の泣き声がする
・産死した女性を葬った場所
↓
土中生誕
その背景にある日本人の精神
各地の例を集めてみると村境の所に伝説の場所が位置
境の神と通じるところがあるが石神(シャクジ)とは違う点がある
・人の死・赤子 というものをどう考えるか
各地の墓・・・赤子の墓だけは別地に設ける
Lコバカ コザンマイ
子どもの葬式・・・普通の大人の式のようにはしない
→村の慣習
墓の入り口には、ほとんど例外なく六地蔵(-安産)が立っている
地蔵=子供に縁が深い・・・安産
L子供っぽい顔をしている
中世から流布してきた語り物
賽の河原 あの世に行く境目 地蔵は案内
葬式をしない → 普通の大人 = 極楽往生
↓
ふたたびこの世に戻ってくることを願っている
→霊魂の転生 ー 生まれかわりの考え方
墓の入り口に設ける ー 普通とは別の期待
・あの世とこの世の境を村の境になぞらえるアナロジー
さらに前進して、巫女と旅、水、霊山などとの関係が論及された。また『一つ目小僧の誕生』において、我が国に広く聞かれる一眼一足の怪物に関する伝説を集め、古代には、特に選ばれて神に仕える人物は一眼一足に限るという信仰があったのではないかという推論、あるいは、貴人遊幸の伝説は、村人が客人としてアラヒトガミ(現人神)の来臨を信じ、これを簡体した表現であり、これら伝説の散布は、木地屋・鋳物師などの特殊な人が旅する間に伝播したのを認めたのは、これら非農の職人の前代の生活の一面を明らかにしたものである。
★note
一つ目小僧の伝説
例外なく、普通の人間では出来ない奇跡を含んでいることが多い
伝説ー元来は神の祭り・超人間的なものとの関係の知識
↓
信仰の部分が欠落していった
↓
神に仕える者の姿=一つ目小僧
貴人遊幸 貴種流寓譚
この村に有名な人(貴い人)がやってきて、村が始まった
↓
~皇子・~尊:皇室の血筋をひいている場合が多い
現実の人物・架空の人物
逢坂の山 蝉丸皇子(後醍醐天皇の子)
一つ目、髪の毛が逆立っている
丹後大江山 マリコ親王が拓かれた
神が、この世に客人としてやってきた
→村では祭りして歓待した
その奥にあるもの
貴人・貴種=天皇の家系に関係ある
(先の例・後醍醐天皇の時代)
↓
山村の住人といえども、京都の宮廷の文化と
少しでもつながりを持ちたく思った
本来、祀られるもの=外界からやってくる
ところが宮廷文化などについて山の中の農民がどのようにして知るのか
→誰かが教えた・外からやってきた者
L「一所に定住する農民」ならざる者
2つのパターン
① 下級の宗教家(旅から旅へ宗教を伝えていった)
~聖(ひじり) 高野聖など
遊行して歩く僧 毛坊主 あるきみこ
② 村に住み着いた農民には出来ないような技術を持っている者
農民=自給自足が原則
商品流通は考えられない
その中の生活にどうしても必要で自給自足が不可能なもの
鉄製品(鋳物師)・木工品(木地屋)
→1つの村に定住することは出来ない
旅渡らい
つねに移動して生活をたてていた
L まったく歴史の記録に出てこない
これは中世以前の事である なぜなら
諸国を遊行して歩く・一所不在→体制的に許されない
幕藩体制の下では、不在の人は活動出来なかった
定住生活に移っていった
宗教的知識を持ってくる聖・木地屋(→霊異視される)たち、
そのものが宗教家として信仰の対象となった
→信仰の知識を技能と一緒に持ってきた 金くそ塚
・伝説・・・新しい史料としての意味を持つようになった