民俗学概論/竹田聴洲
(注釈なし全文通し)
序 民俗学の課題
民俗学は、民族学と深く関連している。民族学は独語では、Volkerkunde。英仏語ではEthnologyと言い、民俗学と・・・?区別している。
民族学は、本来、文字無き未開民族、未開部族を対象として、全人類のもっとも古い文化を探求しようとするもので、民俗学は、高度文化民族の中の低文化生活分野を対象として、ともに記録のらち外にあり、伝承的生活文化を対象とする点で、方法的立場を共通にしている。
民族学は、多民俗学というのに対して、民俗学は、一国民族学という関係にあるが、他を知ることなしに、自らを知ることは出来ない。戦後に名称がポピュラーになった文化人類学Cultural Anthropology は、19世紀以来の民族学を中核として発展してきた民族あるいは民族についての知識を単元として、全人類の文化の構造的把握を目指している。
第1章 民俗の意義と性格
民俗という言葉は、中国や日本の古代文献にしばしばみえているが、要するに、特定の年月日や、特定の人物による事件ではなくて、平凡多数の日常生活一般、あるいはその慣行習俗の無数の累積のことで、地域社会の中で、過去から累代にわたって伝承せられ、文字に記録される動機を欠いているが、遠い過去が姿を変えつつ、一面では、不変に変わらないで伝存している。
歴史の上に名をとどめる、いかなる英雄、偉人も、しょせんは民族の一人である。民族のそうした根性は、いつの時代も、社会の最大多数を占める凡俗多衆の日常平凡な生活の中に根ざしている。一般に記録されないので、普通の歴史学は、永らくこれを故意に無視してきた。彼ら(無数の)書かれざる歴史は、記録としてではなく、伝承として伝わるのである。
2節 習俗と常民
程度の高い、あるいは外来の都市格な文化の影響から遠ざかった村落の日常生活には、古い生活文化がより多く伝存残留している。しかし、いかに史上の名士でも、その日常生活が、すべて非凡で満たされていることではない。
全体としていうならば、無知・凡族の連中の生活の様式と系列から免れることは出来ない。人間生活である以上、自然に対するという意味で、それもやはり文化である。民俗文化の現出というものは、エリートでは特殊な形で現れ、伝承的な凡俗の生活では、それが素朴な形で現れるが、日本の場合、ごく最近まで国民の最大多数を占めた者は、農民であるから、今日まで、民俗学は村落、農民の生活伝承を主に扱ってきた。
しかし、だからといって、それをもって民俗学の対象領域が農民であるとか、無知識階級に限るという考えは、原理的に誤りである。その対象は、職業あるいは階層という範疇で区画できるものでなく、生活の常民的分野とするべきである。
生活を常の面と非常の面とに分け、常なる面を通じて捉えられた民俗、また民俗社会を構成する個人の生活文化。常は凡常を意味すると同時に恒常を意味する。常民というのは、実に民俗学が発見した文化領域であり、範疇概念である。決して庶民というような階級概念ではない。常民生活文化という新領域の開発が、民俗学を独立科学とする。
庶民階層が常民的生活に富んでいるのは事実であるが、それによって民俗学が独立科学として環境づけられるのではない。Folkは日本語の常民にあたると考えられるが、日本民俗学の基礎概念の常民は、英仏独の音訳ではなく、日本民俗学独自の発達の中で、独自の意味内容を充実させたというべきである。
3節 基層文化
常民文化は、国民文化全体の中では、基層を成して非常の面に連なる。文化要素は表層文化を成している。文化は階級的次元で貴族文化と庶民文化、あるいは歴史的次元で古代文化と近代文化、また地域的次元で中央文化と地方文化などに分けられるが、層序的次元で表層文化と基層文化に分けることが出来、これを初めて開発したのは民俗学である。
階級、時代、地域の如何を問わず、従来の歴史学が扱ったものは、主として表層文化であった。しかし、表層、基層というのは相対概念であって、その自覚がなければ他方の自覚もない。基層は記録されない、そのため一般の文献史学は、これにアプローチの道を閉ざしているが、この事実上の欠陥と無記録は、そのまま無価値であるという価値原理と混合することは根本的に誤りである。氷山の露頭も海没部分と共通の性格に規制されることに思い至らないから、相当しないからである。
文化の基層は、民俗文化に固有の原質(Ethnos)を宿しており、表層と基層との間には、沈殿と吸い上げとの交互作用があり、これは歴史的世界が連続と非連続、変不変の相互媒介になることをよく示している。したがって基層(文化)は表層と同等の市民権を持って居る。書かれざる伝承も、方法をもってすれば、表層とは別種の書かれざる歴史を引き出すことが出来るし、また引き出さなければならない。
我々は、表層が無価値であると言っているのではなく、ただ表層の意味を、より深く知るための不可欠の道として、これが新しく開発されただけに、ここに大きな使命を持たざるを得ない。
4節 民俗と歴史
文化の表層と基層、歴史における不変要素と可変要素、生活における常と非常の要素は、互いに相則媒介しあっている。伝承は、国内一様に存在するのでなく、文化的距離に応じて年輪状に変遷の各段階を示して、それらの比較から、変遷、発展の跡を逆構成することが出来る。
ここに歴史科学としての民俗学の本領と、またその成立する根拠がある。それは考古学史料が一定の層序で存在し、発掘されて史料となるのに似ている。
非常の動機に記された過去の記録も、偶然の記録も、常民的要素も秘められていることもないではない。ただ過去の記録から取り出されるものは、その記録成立の本来的動機に沿った一回性、あるいは超凡性にあるのではなく、蝟集伝承として、希少的、常民的であるところに、同じく過去の記録を扱っても、一般の歴史学と民俗学との違いがある。
文献史学は、有文の時代を取り上げたとするならば、考古学は、無文の時代を扱うと言える。ならば民俗学は、不文の時代を扱っている。
考古学も民俗学も、もともと書かれざる歴史の開発であるが、考古学は史料あるものに則して地中から発掘し、民俗学は史料を習俗から発見しているので、広い歴史学の上から、両者は別の翼である。民俗学は歴史学の補助学ではなく、3つの学問は互いに他を補助学としている。
第2章 対象とその領域
民俗学の対象領域は、政治・社会・経済・芸術・宗教・思想などといった一般の歴史の領域よりも、一層広範であるというより、むしろ次元を異にしているが、指標を異にすることによって種々に区分出来る。
イギリス シャーロット・ソファ・バーン
「民俗学提要」20世紀初頭
1.信仰と行為
2.慣習
3.物語・民謡・言い伝え
折口信夫
1.周期伝承(年中行事)
2.階級伝承
3.造形伝承
4.行動伝承
5.言語伝承
対象領域そのものに則した分類
柳田国男
民俗学は机の上で本を読んで出来るものでなく、フィールドサーチが生命である。
採集する場合、フィールドにとっては、他から入ってきた旅人で、
入って来た研究者の側からの立場で、難易の度合いによって分けた。
1.有形文化・旅人の学
2.言語芸術・寄寓者の学
3.心意現象・同郷人の学
和歌森太郎
1.経済人的生活伝承
2.社会人的生活伝承
3.文化人的生活伝承
第3章 方法論
Ⅰ 史料としての民間伝承
史料は、普通には文献史料を指し、民衆にとっては疎遠である。しかし民俗学は、伝承を史料として過去を復元する。考古学は、遺物遺跡で歴史の上の方の空白を満たすのに対し、民俗学は、伝承で歴史の両横の空白を満たす。
民俗学は〈A 現在学〉すなわち現段階において民俗の持つ意義を見出すか〈B 過去学〉すなわち民俗の変遷過程を明らかにするかについて、戦後、民俗学会で論争が行われていたが、AはBを前とし、Bの結果、Aか分かるのであり、伝承は残存で繋ぎ合わせて、元の姿、すなわち文献の伝えざる隠れた歴史を遡及、さかのぼる。その歴史は、時代遡及的であるが、変化は常に全国一律でないから、そこに時代区分は成立しない。ただ民俗の発展系列、前後関係、すなわち相対年代が明らかになるのである。
Ⅱ フィールドとしての村落と都市
生活のあるところすべてに民俗はある。従来は、都市よりも村落を重視してきた。村落は都のように、外来文化・知識文化・高度文化によって、土着根生いの文化要素がスポイルされることが少ないためで、そのために村落でも、ことに僻村(へきそん)が好フィールドとされている。しかし都会からの文化的距離は、地理的距離と同じでなく、その遠近は主として交通量によるところである。
Ⅲ 現地採訪と文庫作業
採訪は、考古学の発掘にあたる。しかし民俗は必ず背後生活との全体関連の中にのみ存在するので、要は、一定の土地(村落)における一定の習俗の存在を確かめ、それが全体の発展系列の中で、いかなる位置を占めるかをみることである。言い換えれば、民俗の存在する土地は如何、逆に、その土地に存在する民俗は如何、とみることである。その系列の事例(民俗的)現段階で、どこまで収集され系列化され意味づけされているか、未知の同系の民俗学があるとすれば、どういう可能性の予想される土地であるか、いかなる性格を過去に持つ土地であるかを、予め検討しなければならない。
これが文庫作業であるが、具体的には、地誌、地図、統計、民俗報告、専門書、学術誌、辞書、語彙などによって、目標民俗の他の土地でのあり方を予め調べる作業は、採訪のメリットを大きく左右する。採訪では、特に聞き取りが大切である。良き伝承者を発見して、そこから所在の知識を余すところなく採集する。その土地の平均知識度が、伝承者を求める一応の目安だが、常に必ずそうとは限らない。聞き取りは、一種の技術であり、見習うほかはない。特にHospitalityの心理をよく理解して、相手に接することが大切である。
Ⅳ 民俗語彙
常民社会の命名は、常に即物的、印象的な一面をとって命名されるので、逆にその命名は、その事物がその土地で如何なるもので印象されたかを、よく物語る。
Ⅴ 周圏理論と重出之証
伝承の形態発展は、時間的前後関係を反映している。理論的前提は、考古学のそれと同様である。考古学の遺物発掘も、民俗学伝承の採集も、ともに現在においてであるが、そこから過去を復元するのに、性格・形態が時間的発展系列のそれぞれの段階の目印となるという点で、歴史科学として、この2つの学問は、同じ考え方に立つ。それは様式的関係としての横軸を時間的関係としての縦軸に引き直すということである。考古学の史料の出土状況と同じく、民俗資料も、その存在データの如何によって、資料的価値は、大きく左右される。考古学は原則として、下の地層は上の地層より古い率を包含するが、それにあたるのは、民俗学では、文化的距離関係で表し、文化の中心から、より遠いものは、より近いものより古いとするのが原則である。
日本は固有文化の地盤の上に、外来文化の注入を受けて、間断なく、これを同化援用させてきたが、注入、摂取は、都府畿内など文化の中心でまず行なわれ、時とともに、周辺部に波及するという経過をとった。池に石を投じ、生じた波動が、地辺に至ると、微かになるように、後々の文化波動によって、中心部では、前代の文化は消し去られ、辺部では、中央からの影響は少なく、前代文化の残存する可能性が高い。
逆に言えば、国の文化中心から、遠く離れた辺境で、一致するのは、中央では消えて、遠辺なるがゆえに残存した、より古い姿と言える。この場合の遠近は、どこまでも文化的遠近であり、地理的遠近ではないが、交通の未発達の状態で、東北のような地理的に遠いところは、文化的にも、また遠い所である。遠くの一致、近くの不一致という現象がここから生まれるが、こうした伝承は、きわめて古い可能性が強い。東北端と西南端との間で、中央を素通りして直接に文化が運ばれるということは考えられないので、これは、かつて全土を覆ったものが、中央では消え、遠辺では残った結果と言える。伝承を一つの発展系列に位置づけるには、伝承自体の性格、形式及び、先述の呼称とともに、その存在する場所、つまり地理的存在形態如何が、重要な目印になる。
方言、民俗の地方差は、時代差に他ならないという理論は、周圏理論と言われる。柳田国男は、名著「蝸牛考」という書物で、蝸牛の方言について、見事に周圏理論を実証したが、古代文献に記された女性司祭は、姿を変えて、東北のイタコ、沖縄のノロやユタに古態を留めている。ともに神を齋(いつ)く、イチコ傾向の言葉である。一般には、部落の産土鎮守を指す氏神は、東北地方の事例では、同族神をウチ神、九州の南端でも、やはり同族神をウツガンというのは、氏神の本体を示すものである。
しかし周圏理論は仮説で、一つの目安である。民俗の残存、周圏の中心を畿内や都府において考えることを、すべての場合に一般化出来ない民俗は、一般に非常に複合的性格を持っているから、具体的現状には、地域社会が受けた特殊条件が珍しくない。ものによっては、地域的中心が存在し、周圏的でなく、どちらか一方から一方へ系樹的に延びることもある。あまりに固執すると結論を逆に方法に用いる方法を犯しかねない。
つまり、実は系樹的であるのに、周圏理論を信仰するあまりに「~でなくてはならない」として実態を見誤る。これを念頭において、どこまでも一応の仮説として、着実な立証法に則して、民俗の古さ、新しさを検討すべきである。
周圏理論自体、民俗の比較、帰納が基本的研究方法を物語っている。民俗が各地で異なることは、比較を可能にもし、また、必要にもするわけである。言い換えれば、それが可能な根拠を与えることで、重ね写真式につなげ合わせ、どこの部分が共通であるのか、どの部分が後事的であるのか、付加的であるのか、全体発展の経過像を構成、導き出す。伝承は、いかに珍奇にみえても、一つだけでは比較が出来ない。したがって学問の対象とはならない。ここに猟奇・好事との違いがあるのである。
Ⅵ 民俗の無時代性
民俗は、どの時の断面で切っても、発展段階の中のそれぞれの場に位置づけられる。各地に分散しているのであるから、全国一律、時代ごとに変わるのではないので、時代、年代観念は適応できない。時代区分は階層分化にのみあるので、基層分化には無いと思い至らないで、一般の歴史家は、しばしば、これを不満としがちだが、それは民俗と風俗とを混同するものである。
古い文献に、ある民俗のことが記されていても、それより古いものが、それより新しい時代に、極端に言えば、現在にさえ残存しているかもしれない。したがって時代という概念は、ここには最初から無視されざるを得ない。風俗は時代と階層とを掛け合わせた次元でとらえられ、したがって風俗は、どの時代との階層の風俗というように、文献、遺文によって歴史の表層を見るのである。民俗学は、それと一見似ていて、実はまったく異なることは、今まで述べてきた方法論が、よくこれを示している。
これを要するに民俗学は、文献のらち外にある、かくれた歴史の発掘にあり、学会に知られたものを机の上で知り、空白の部分が何であるかを知って、それが補充できうる地点を、いろいろの参考データから選定する。次に臨地採訪は、目、耳、心を働かせて、古老などからの聞き取りと観察を、写真、カード、スケッチ、実測図などに採録して、それを項目別に分類し、文庫作業に使った資料と比較して、採録結果の意義と価値を考え、既に知られている知識の不備不正確を、一歩でも確実・豊富にし、近づけるところに、この学問の発達があるのである。
第4章 民俗研究の歴史
民俗学は、若く新しい学問であり、学問体系を完全に樹立したとは、必ずしも言えないかもしれない。これは、民間在野の学問として終始してきた、一つの学問分野として形を整えたのは、19世紀後半のことで、明治以後、我が国に輸入せられ、柳田氏の働きで大きく進歩し、独自の発達を遂げたのである。鎖国当時から西洋と没交渉であったけれども、その基盤は準備されていた。江戸時代の学者の中には、民間伝承の中に古族の存在を感じとったものがいる。その点で挙げられるのは、元禄の西川如見「町人嚢」本居宣長「玉勝間」。彼らは別段、民俗の収集比較やそのsocietyを結成したわけではないが、文献に載らざる事への関心は、近代民俗学の先夫と言える。
近世後期に続出した好事家の随筆、紀行は、各地の民間風俗に目を向けることとなり、その結果であった。また幕末の屋代弘賢が「古今要覧稿-風俗部」の資料集めに、冠婚葬祭、俗信などに関して、「風俗問状」を書いたことは、今でいうアンケートの民俗である。今日の民俗が、日本において意義あるものとされ、学史上、画期的なことである。
西洋近代民俗学の源流は、18世紀末~19世紀初 にかけてのドイツ・ロマンティークの運動で、民俗の中に歴史を見る態度として出発した。そこでは歴史家の Justius Moser 、哲学者の Herder,John Gott Prieduon 、言語学者・童話で有名な Grimme 兄弟が挙げられる。19世紀は、史学の世紀と言われ、文化史学が勃興してくるが、豊かな人間性への省察が、従来無視されてきた民間粗野の伝承に目を向けられてきたのである。
文化史、民俗学ともに、近代的自我に発し、民俗学が広義の近代史学の一環であることは、それが発生的に成った性格である。江戸時代の古風、古族への関心は、国学系統の人に多かったのは、ヨーロッパの民俗学の中心が、ドイツの民俗主義的ロマンチシズムを母体したので、一脈相通じるが、民間伝承は、本来的に歴史的性格を持っていることによるのである。
文明開化の風潮で出発した明治維新の日本は、伝承をethnography、民俗誌として捉える見方が強く、日本人をみること、外国人をみるのと大差なく、日本の伝承をみるのに、あたかも外国人が日本人をみるような態度で臨み、民間伝承の歴史性など思いもよらず、普遍的に人類の一環としてみるにとどまった。
民俗学は土俗学とか俚諺学などと呼ばれ、日本人に関する意識は少ない。地方に珍奇を求むるのをコトともした。しかもその中で、明治19年、東京人類学会の建設、機関誌、人類学雑誌は、一時期を印した。そこでは、後の民俗学、民族学、形質人類学、考古学、言語学などが、未分化に雑居して、これら諸学の母体を成したものとして、記念碑的意義を持っている。ダーウィンが生物学の上で使ったSurvivals(残存)の理論、英国の人類学者Tylar(タイラー)によって、未開社会文化に適用されたが、明治の先学は、これを日本民俗に適用し、英国風の進化論の文化に対する雑ぱくな適用が知られている。
明治の後半後は、哲学だけがドイツ流で、他の文化科学は、英国風の色彩が濃く、英国風なエスノロジーに包まれた、日本のフォークロアが盛んであった。また、そうでなければ、往々にして、旧来のように、漢土伝来説で片付けられた。すなわち、民俗研究は、なお民族学の中に埋没し、日本民俗を、日本自体独自のものとして解釈することは、なお次の時代を待たねばならなかった。
柳田国男は、西洋の理論を十分に消化しながら、豊富な日本の民間伝承に目を向け、その傘下の学者とともに、次第に日本独自の民俗学の樹立へ歩み寄ってきた。日本民俗学の父と言われる所以である。
その活動の初期、明治42年に公刊した『後狩詞記』、翌年『石神問答』は、きわめて具体的問題を扱いながらも、その後の日本民俗学を方向づけた記念碑的仕事とされている。前者は、狩りの道すがら、九州宮崎県東臼杵郡椎葉村で、村長から聞いた猪狩りの古実を中心とする山村生活の伝承と、同じ村の旧家に伝わる狩りの伝承を世に公にしたもので、彼は、そこで、こうした鄙びた山村生活の伝承が、他の土地のものと合わせて、注意されることによって、やがてこれを支えてきた山人の信仰の本質が明らかにされるのを期待したのである。
そこには従来のいわゆる土俗学、俚諺学にはみられない多くの特色があるが、山人の生活に対する深い愛情が、とりわけ注意される。当時は、山人が真剣に保持してきている俗信、禁忌、伝説などの伝承は、迷信扱いされ、この打破が叫ばれたり、好奇の目で見られたり、一向に同情無度はされず、エスノロジカルな目で、国内の伝承を見る立場からは、僻村の土地の珍奇な風と見えるものを、彼は、地方生活の諸国様を地域に関連させ、浮かばせることによって、それぞれの郷土生活の根本を支えている心意伝承、しかもその日本的心性、歴史性に相当することが出来ず、取り扱う資料が、腰を落ち着けた旅をしての採訪による資料でなかったこととも関連し、常民生活の愛着も夢想だにしなかった。
この著書・小冊子、しかもその内容は、柳田の創作ではなくて、埋もれてきたものを発掘紹介しただけのものであるが、こういうものを、こういう仕方で取り上げたことが、独自の新分野を拓いたものとして、画期的な意義を持っていた。
日本民俗学は、上述したとおり、各地の民間伝承を方言、つまり郷土の言葉によって採集比較することを、方法上の一大特色としているが、そういう特徴への兆しは、これらの書において十分に現れている。ひとつの僻地の言葉とみられるものも、国内のあちこちに、なお隠されているであろう、類語との比較によって、それが実は古い日本語の名残にすぎぬものであることを示す要因が潜んでいる。西南日本の生活を描く『後狩詞記』に対し、300数十里隔たった上閉伊郡遠野郷に伝わる山人や神にまつわる伝承を集め、翌年出版された『遠野物語』には、たとえば西においてのニタという水たまりが、東北でもニダと呼ばれ、もとは国内一円に使われていた古語が、時とともに消滅しながらも、辺鄙なところに、いつまでも残存してきたと解せざるを得ないことを気づかしめたのは、その一つの実証である。
『遠野物語』には、オシラサマ、ザシキワラシについての伝えが残され、後の民俗学研究を刺激した。地方民間語を窓として、日本民俗、常民生活の変遷、伝統をみるために残したのは『石神問答』。シャクシ、シャクジなどについて柳田は、疑問を出し、論証を進め、山中わらうが、石神がもと存在したとするのを反対し、杓子は延喜式にみえる、サクの神から、シャクシと変遷し、道祖神的なものであるゆえに、石神が祀られるようになったと説明した。まさに重出立証学の先進、日本民俗学の躍如たるものであった。
このように方言に対する深い関心から、地名、人名に深い注意を寄せ、一つのところに伝わる伝承が決して日本で珍奇、特殊な唯一のものでなく、ようするに日本全体にあったものの残存に過ぎない、ただの伝承自体に意義があるのでなく、そういう伝承をもった過去の日本人の気持ちや生活態度、それを必然ならしめた分厚い常民層の問題とした。それをよく示すものに、伝説研究がある。これまでの伝説は、ある土地の固有名詞に関係し、歴史的にそこで特殊な事跡を残した記憶が語り継がれているかのように考えられている。
普通の歴史研究と同じ次元で、それに史料的価値があるかないか、ということが問題とされてきたが、柳田にとって、伝説をそのように解することは、まったく無意味である。伝説では固有名詞そのものは問題ではない、こういう固有名詞が付けられる前に、何か普遍的な言葉が先にあり、その言葉を含んだ話し方のパターンは、決して一カ所に特有でなく、あちこちに共通するものがあった。日本人が、もし普遍的とした、例えば信仰に関する習俗が先にあり、その説明話が行なわれ、それが言葉の連想で、それが固有名詞を吸着したものであるとし、伝説はいままでと違った史料価値を与えられることになった。
大正2年、柳田は、自ら主宰して、雑誌「郷土研究」を発刊したが、ここでいう郷土研究とは、郷土そのものの研究ではなくして、郷土生活を通しての日本研究を志した者である。そのための史料の調査研究を要した。
柳田が、その第1巻に出した「巫女考」は、神社付属の土着の巫女とは別に、口寄せを生業とする、旅する巫女、むしろ、それらが先行形態で、それが近世に土着するに至った経路で論じた。
第2巻「毛坊主考」は、俗体の僧侶が、地方村落生活の上で重要な役割を演じ、念仏、鉦叩き、虫追い、御霊祭などを主宰し、次第に村の特殊人としての宗教人となっていった事実に注目した。
また第3巻には「柱松、勧請木」で、霊の依りましに関する研究をし、その後も、これらの諸説に関する伝説を極めた。
これらは民間信仰史、宗教社会史というか、従来の歴史研究が、思いもよらなかった、著しい新分野の開拓であった。歴史に接触して、古代の社会、宗教の究明に大きな通路を拓いたのである。
もの、あるいは人を通じて、あるいは土地の伝説を通じて、古代的原始的宗教心意を探求することは、さらにカッパや馬蹄石(ばていせき)に関する伝説を国内に広く求めて「山島民譚集」となり、神を助けた話において、日光の神戦伝説からはじめて山の神信仰に至り、その話を流布した木地屋のことを扱い、また「赤子塚」の話では、土中誕生の伝説から、境ま神の信仰を辿り、古代日本人の霊魂転生観念との関係を論証したが、ともに伝承による信仰的心意の探求の線に沿うものである。
さらに前進して、巫女と旅、水、霊山などとの関係が論及された。また『一つ目小僧の誕生』において、我が国に広く聞かれる一眼一足の怪物に関する伝説を集め、古代には、特に選ばれて神に仕える人物は一眼一足に限るという信仰があったのではないかという推論、あるいは、貴人遊幸の伝説は、村人が客人としてアラヒトガミ(現人神)の来臨を信じ、これを簡体した表現であり、これら伝説の散布は、木地屋・鋳物師などの特殊な人が旅する間に伝播したのを認めたのは、これら非農の職人の前代の生活の一面を明らかにしたものである。
前代神威の史料源は、伝説からさらに発展して、昔話による「桃太郎の誕生」(昭和8年)で、ひとつのまとまりが出来、日本が世界にもまれな昔話の豊富な保存地で、桃太郎の話を分析すれば、他の著名な昔話との混同や変貌の様を伺うことが出来るとした。
桃太郎の話は、もと川上から流れてきた童子に関する話で、それは川上を神聖視し、神の子が水に浮かんで示現されるという固有神道の信仰に由来すると論じた。子供の世界の物語として零落したものの、かつては大人の世界の真剣な営みの跡であるのが明らかにされてきたのは、まことに大きな発見というできであろう。
昔話に限らず、日本の伝承一般に、外来要素が入っていることがあるとしても、それを受け入れた素地を見逃さず、そうした素地を究明するのが民俗学で、いうならば、新しい考古学であるとする思考が現れている。民俗学をもって新国学とみることは、大正の中庸、彼が海外から帰って一層深まり、事後、大正末年にかけて「海南小記」(九州~沖縄)、「雪国の春」(東北地方)、「秋風帖」(中部)などの紀行文において、国民生活の歩んできた種々な変遷過程は、タテに資料を並べなくても、現代の田舎をヨコに、巡って、種々の時代の残骸を訪れていくことによって、自然と了解できるだけでなく、基層常民の生活史は、むしろこれによらなくては明らかにしえないことを示したのである。そうして琉球の民間伝承が、日本の本土で消え去ったものを、なお多く保存し、いわば民俗学の古事記としての意味と位置をもつことが知らされた。
彼は一人民間信仰のみならず、その後も次々に多くの方面に民俗学的解釈法の可能性を示唆していたのは、まことに「学会」の脅威であった。そうして、この国の常民生活の移り変わり、移りぶりについて、自信に満ちた把握が進められるに及んで、伝説なら伝説、昔話なら昔話、民謡なら民謡で、民間伝承資料の累重と、一応の見通しに立つ説明が施されるようになり、ことに民謡は、追随する学者や研究も多く、それに関連して、舞踊への関心も添えられ、民俗芸術という雑誌も出来、折口信夫も活躍をした。
そうして累重された民間伝承を、上述してきた民俗における方言の重要性の着眼から、方言語彙をもって表示した。索引事書的な民俗語彙が、産育、婚姻、葬送、禁忌、服装、居住、歳事、族制、農村、山村、漁村などにわたって、次々に出版されたのである。昭和初年にかけて。
大正の後期には、柳田以外にも、喜田貞吉(「民族と歴史」雑誌)、中山太郎などは、独自の日本民俗学をひょうこうして、多くの論考を発表し、民俗に関する世間の関心をそそったことで、注目に値することであったが、柳田の学派に対して、方法論的な粗雑さを免れ得なかった。柳田の民俗学が、信仰や昔話・伝説から進んで、このころから農村の社会経済的慣行を、古態を伺う方向を示したことは、あたかも当時、勃興しつつあった社会経済史学に、著しい貢献を遂げた。
昭和に入って、「日本農民史」、「明治大正史世相編」、「国史と民俗学」(S.10)が出て、民俗学が、全国民生活の伝統と変遷を知るべき歴史の学問であり、という自覚を明らかにし、また同時に、他方で「民間伝承論」(S.9年)、「郷土生活の研究法」(S.10年)を出して、未開社会を扱う民族学と、文明基層社会を扱う民俗学との方法論上の質的相違を明らかにして、明治風の民族学的民俗学を、あきらかに違った民俗学独自の体系樹立を試みたのである。明治このかた、固有の民俗学的研究を主流としながら、様々の種類の伝承に亘ってきたものが、一応、部類分けされるに至ったこととともに、その上に立って、独自の体系化への思考を明らかにしてきた。
まことに昭和9~10年にかけては、この学問にとって、ひとつの画期(エポック)であった。民俗学が前代常民の生活をあとづけるものだということは、当然、最初から意識されてはいたが、しかし、今や、その領域が一応見落とされ、それが分類され、方法論が自覚され、性格規定が自らの手で行なわれた時、究極において、歴史学に他ならないことが自覚されたことは、極めて注目に値する事である。
これまでの歴史学は、限られた文献史料にきょくせきして、文字を持たない村人、文字に記されざる村人の生活については、自己反省の術を持たなかった。そうした歴史の空白部分にくわを入れて、真に全国民的な文化史を開拓し、祖先以来の道を守って、村のため、ひいては国のため、営々と働いてきた無数の名も知れぬ村人も、実はそれなりの仕方で、一国文化を担ってきたことを諭らしめようとする経世の唱導には、村人に対する、あふれんばかりの愛情が、これを貫徹している。
柳田を中心とする同志は、昭和10年ころから雑誌「民間伝承」を中枢機関誌として民俗学の普及に努め、子弟協同して、全国の山村、海村を選んで、共同項目によって計画的調査を実施し、その結果を、項目別に分類・概括して出版した。「山村生活の研究」「海村生活の研究」が、これである。この最終事業によって、民俗学に志す者が、まさにその方法を体得したと言えるのである。
そして柳田門下の同学の志は、それぞれの特別問題の研究を目覚ましく、かつ着実に、発展させていった。戦時下の軍国主義的な中では、村の神社は国家の神社として、村の祭りは国家の祭りとする姿が濃くなったが、これは決して日本の常民生活本来の姿ではなく、神社は元来、村人・氏子のもので、その中で村ごとの祭祀組織が、それぞれ独自のかたちをもって形成伝承されてきたので、これを純学問的に研究して、日本社会の理解を促そうとする試みは、柳田国男によっても、行なわれはしたが、昭和10年ころから現行祭儀の民俗学的研究をもって、古代の社会生活究明にあたっていた肥後和男氏は、近畿の宮座を伝承している村々の実態調査によって、神社を中心とした村落生活の研究を行なった。
他方、柳田も「日本の祭り」(昭和17年)に、祭りの変遷、殊に、その固有の形について、祭場の標示、物忌と精進、神幸と神態、供物と神主、参詣と参拝、などの面から、これを論じた。その他、祭祀組織や祭りの期日についても論じた。祭りは、村や同族共同体と不可分であるから、祭りの研究が進むと同時に、柳田や門下の学者によって、村の組織や家族制度についての研究が進められたのである。
民俗学に対する関心や興味の普及は、昭和10年代から各地に地方民俗学会が組織され、機関誌を出し、各地の民間伝承が紹介され、資料の数は、おびただしく増加した。
そうした成果に立って、近年、柳田が中心となって『民俗学事典』『総合日本民俗語彙』が公刊され、これまでの知識を整理、集大成したが、これによって日本民俗学は、ひとつの到達点に達したと言える。戦後における画期的な時代は、柳田の蔵書と史料の一切の提供を受けて、民俗学研究所設立されたことである(昭和22年)。経済的、その他、組織面の理由もあって、発足後10年にして閉鎖された。
戦後の重要な研究問題は、以前から問題にされていた民間信仰、ことに氏神、田の神、先祖の信仰、それらと絡んで、イネの信仰などである。また、先祖の信仰は、両墓制の問題関心を促した。
それとともに、沖縄がアメリカの占領下に置かれたという制約にもかかわらず、日本稲作文化の故地、先端地として南島の研究を刺激した。柳田の最後の書『海上の道』は、そうした情勢を背にした、柳田の多年の研究の、ひとつの帰結とも言える。
半世紀にわたる柳田の仕事によって代表される日本民衆史、民間在野の学として行なわれ、ことさら大学に講座を持たなかった。民俗学が常民生活のあらゆる部門にわたり、あらゆる部門の学問が、それに関係し、長く独自の学問的体系を持ち得なかったことと、民俗学の成果と価値が、いわゆる文献を偏重する正統学派から、一種の偏見を持って十分に評価されなかったことが、大きな障害になった。しかし最近における民俗学は、次第にそれらの偏見が除かれ、大学で講義も持たされているが、まだ専攻課程が置かれるまでは至っていない。
第5章 郷土と村落社会
近代資本主義は、人々からふるさとを奪ったといえる。かの文部省の唱歌、「うさぎ追いしかの山~」という牧歌的状況を、都会に生まれ育ったホワイトカラーの2世3世には、おそらく実感をそそらないだろう。しかし、すべてを一律化する様に見える近代資本主義文化、ことにその象徴としての都市も、細かく検討すると、独自の風土的性格を備えている。情熱の歌人、石川啄木が、「ふるさとの山に向いて言うことなし・・・」と歌ったが、それは多くの人々に共感を呼んで愛唱されるのは、人々が失われた郷里に対する郷愁を感じるからで、郷里を失った寂しさに訴えるからである。望郷の念とか郷土愛の感情は、何も日本人だけのことではない。しかし日本人は、とりわけ郷土に対する愛着心が強いと言える。他郷他国に出て成功し、あるいは失敗して、常に思うのはふるさとの事である。彼にとって郷里は、自己の人間形成の大きな契機として入り込む、思い出と一体化した風土としての自然である。客観的な風光の美行、地味の基層は、問題ではない。人の心を温かく抱き込んでくれる故郷の山河は、旅人が行きずりに心惹かれるあれこれの山水とはまったく別の、当人以外には味わえない諸々の思い出を秘め、ありがたいのである。
故郷の故(ふる)は、古、旧、昔であるとともに、「経る」でもある。歴史的経過的なものを含んでいる。出生地というだけでなく、世代的な定住、少なくとも一定期間、特に人間形成に主要な幼少年期の生活体験が織り込まれていなくては、真のふるさとにはならない。
日本人の大多数は、既に有史以前から、強固な定住農耕生活に入ってきたが、この点は、牧畜や狩猟を長く続けた民族とは大いに異なった心理を形作っている。獲物を追って、常に移動し、風土的環境を自ら調節するのでなく、定住農耕の生活は、所与の生活に順応した生活にならざるを得なかった。
日本の農村には、近ごろまで、一生を生まれた村内で過ごしてしまう者が少なくなかった。それは、あたかも植物群を見て、生まれた土地と切り離れることなしに、その土地とともに生きる生活。こうした定住性の特徴は、ただに空間を占有しているだけでなく、時間の占有と自覚がある。とくに村落が孤立した自給自足の小宇宙を作っているところで、こうした意識は、世代的歴史的に生活の中に伝達されている。それは自然や風土に対する意識や感情、そこから培われる生活態度、人生観だけでなく、長い歴史の流れと風土の命令の中で、幾世代となく試行錯誤(error&trial)を繰り返して、その末に、ようやく到達された生活の形態と秩序であり、それは、同一の生活条件が続く限り、世代から世代へと伝達・継承され、支配的働きを、後代の人々の上に及ぼす。
それが、習俗あるいは伝承(Folk ways)ひとつの社会力となって人々を教育し、規制するために、ここに一定の生活と人間のパターンが出来上がってくるのである。かくして村人は、単一な一人の人間としてあるのではなく、また、ありえないのである。村に生まれた人間は、村落社会という樹木の葉であり、家族というのは枝、家連合という大枝を介しての幹としての村落社会に連なり、その根は、先祖たちの生活伝承の中に深く下りている。葉である人間を、過去無数の死者の蓄積してきたエネルギーと経験によって、ここに生かされ、根、幹から養分を吸い上げ、自らを形成している。一言で言えば、郷土を支えているものは、残留と持続であり、すなわち伝承によって作り上げられた。Culture Complex(文化複合)と、これによって作りあげられた人格・心情との相関関係である。
自然景観と、それを取り巻いて話し合い親しみ、憎しみあってきた家族、親族、同族、近隣、村人、あるいは、彼らとともにやってきた祭りや年中行事や冠婚葬祭、交際、共同慣行、また彼らとともに、土地に即して語り継がれてきた伝説、昔話、禁忌や諺、そうしたものが、土地と建物を中心に、縦横に絡み合っている伝承的類型的な生活と文化の郷土の実態である。
それは、ここに生まれ育ち、それを身につけてきた自己の人格、心性の反省自覚の上に意識されてくる感情である。しかしこうした自覚や意識は、人によって一様ではない。伝承の中に埋もれ、他を知ること無しに生涯を閉じ、土地で送るものには、かえって故郷意識は浮かび上がってこない。それは郷土を離れるか、他と比較することで、客観化し、反省するという手段がいる。
都会は、あるいは人間の砂漠、極端に言えば、掃きだめである。となり近所の人の素性等に関わり合うことなく、見知らぬ無数の人間が、充満して、孤独の観は大都会において、まさに切実である。ここに人は、故郷のもつヒューマンな親近性を感じる。一族、縁者はもとより、村の家々の系譜も素性も知りつけ、暇があれば、その家の米びつにまで手をつけ、道で会えば挨拶し、同じ方言、思想を持った故郷は、自己と他人とが内面的の深くかかわる共同体であり、これがふるさとを思う心を作り上げている。したがって郷土本籍地とは、まったく違う、同じ文化の土地でも、はじめて郷土を離れた2世代3世代は、心持ちは同じではない。孫やひ孫の時代には、もはやありがたさをもって迫る郷土ではない。
鉄道の本線とローカル線とでは、車内の雰囲気に著しい差があることは、しばしば経験し、その地方色は、住民の血縁的構成や同志的影響、ないし文化的社会的遺伝が、地方的に孤立して集積された結果であるが、距離が遠くなるほど、この伝承は、著しい差をもって増すのである。市井の上で孤立しやすい地域、すなわち半島とか峡谷、高原、盆地が特に強い特徴を持っている。我が国の村落社会の封鎖的共同体的性格は、近い頃まで、典型的な型で保持されてきた。それは内部に向かっては、強い強制力となって表れ、宗教的シンボルによって、精神的にも権威づけられ、固有の生活型に人間を運んでいる。この統制力に服従しえない個人は、その村落社会の成員たる資格を剥ぎ取られ、これが村人間の慣習であるが、これは単に、封建遺制というよりは、共同体の統制力の強靱さが、変形しながらも残存し、それが崩れるところで、種々の弊害を生じたと言える。
こうした共同性と統制力とは、一般に我が国の村落の立地条件が、地勢や風土の関係から、著しく孤立的で自給自足的な集団社会を構成し、村自体が、それぞれ独立した島しょ的性格を持ち、また長期にわたる集約手工業法による強固な定住農耕生活を営んできた生活形態にも負うのであろう。こういうところでは、生産行程の能率の上からも、有形無形の外部からの侵入者に対して、種々の天災に対して、できる限り人間の労力を結集して、一つの中心に組織化しておかねばならなかった。今日の村が、血縁集団としての家族の他に、地縁集団(結合)としての組やカイト、同族集団としてのマキやカブを構成し、村の氏神や寺院の他に、それらの下位集団が、それぞれ共同の神祀や仏堂や共同墓地を持ち、本家、分家、親方、子方、大家、名子などの本末上下の従属関係に、寄り親、名付け親、宿親、へこ親、エボシ親、ナコウド親、カネ親、トリ親など、通過儀礼にまつわる多数の仮親の風習による「親子なり」の関係や、年寄り、若衆などの年齢階梯が、職能の文章とともに多少とも政治的心理的組織を作り、経済上のオータリティと、文化上の共通意識のもとに、孤立封鎖的性格の形態を、現在まで残してきているのは、その原因でもあり、結果でもある。
了