本来、歴史的にも文化財的にも貴重な民俗資料は、その意味や用途、歴史がわからないために、表に出てこず、また埋没してしまうきらいがあります。身近な生活の中に、そのような資料がたくさんあるのです。
特別論考・・・人は死んだらどうなるのか?
個人の家として古い民家を維持していくのは難しいのですが、公共の施設として民家を保存し公開しているところ(民家集落博物館等)があります。
→たてもの探訪に詳しく掲載
大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事である。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。>>>ウィキペディアより。
大峰山(おおみねさん)は奈良県の南部にある山です。私の住んでいる地域には「行者講」という「講」が、かつてありました。それは大峰山へ参詣する集まりで、現在では、ふもとの町までは公共交通を利用して行けますが、ひと昔前なら「旅」とか「修行」といった感じのニュアンスとなり、交通は一部汽車を使う程度で、大半は徒歩が多く、一大覚悟の上での参詣だったと思います(私は父親から何日もかけて行ったのだという話を聞いたことがあります)。この山は、古くから修験道の山として知られており、山全体が聖域とされ、いまだに女人禁制が守られています(国内の山ではここだけではないでしょうか、あと相撲の土俵、祇園祭の長刀鉾など同様の禁制はよくあります)。写真にある「女人結界」の書かれた門からは、女性は入れない、とのことです。ただし何年か前に、某県の女性議員(革新系)が地元の方々の反対を押しのけて登山したことがありました。
この写真の2005年、地元で、かつて大峰山の「講」構成員の家を中心に、登山希望者を募り、初心者の僕も含めて、最後の行者講として行ったときのものです。そして、頂上の絶壁に設けられた場所から、上半身をせり出して下を見る、という有名な行ない、があります(1000円くらいの料金が必要で手ぬぐいをもらいます・・・・なんだか商売のような感じがしました)。その際、もちろん身体は、係りの人がロープでくくりつけていてくれるので、落ちることはないにしても、かなりの絶壁です。それをわざと少し下にずらされたりするわけです。その際「親に孝行するか?」ということを聞かれ、応えなかったりすると、また下にずらされる、ということになります。私も、ちょうど50歳になった年に、それを行なったわけですが、本当はもっと早い時期に行っておくべきだったのかな、と思いました。ただ、吊るされた際、メガネは外すように言われ、もともと視力の弱い私は、実のところ、ロープで縛られる痛さはあったのですが、下の景色はぼんやりとしか見えなかった、というのが実際でした。
産屋(うぶや)
一般的には、出産のための部屋のことをいいます。かつて出産は不浄なものであるために家屋とは別に小屋を設けて、出産を行なうという風習が存在しました。この写真は、京都府福知山市三和町大原にある、京都府の有形民俗文化財に指定されている産屋です。
この地域には、近隣で最も信仰を集めている天一位・大原神社が鎮座されています。産屋はこの大原神社とは川の対岸、約100mほどの川端にあります。パンフレットの解説によりますと、当地で出産を迎えた妊婦は、皆この産屋に7日間籠って出産をしてきましたが、難産した妊婦は一人もいなかった、ということです。そしてこれは大原神社の神のご加護のお陰と信じられてきました。
この産屋で出産をする風習は、大正時代まで続き、産後3日3夜籠る風習はその後変遷して産後1日1夜籠るようになり、昭和23年ごろまで続いたということです。
上に書いた説明は、ごく一般的な民俗学の解釈です。しばしばこのような習俗(相撲の土俵に女性は上れない等含む)は、女性を不浄なものとする古代からの悪習というように言われております。私は、この解釈に対して、ある研究者が述べた言葉が印象に残っています。つまり本来、出産という行為は、作物の豊作に通じる、また人の生誕を司る神聖なものであった、少なくとも古代では。したがって神聖な行為は、普段の生活の場で行なうべきではなく、また不浄な男性などが居ると汚れる(通説とは真逆の考え)ので、場所を産屋という聖域に移して行なうものであったということです。それが、戦国時代を経て、女性の地位が低くみられるようになると、場所を別に移動している、その現象だけが意味を無くし、不浄なもの、という解釈にすりかわった、というものです。すべての習俗がそのようかどうかは分かりませんが、ある場面では、案外正しい見方なのではないかと、個人的には考えております。