愛宕山 京の都におけるその位置と役割

渡月橋からの愛宕山(2021.5.11.撮)
渡月橋からの愛宕山(2021.5.11.撮)

★このページについて★

 このリポートは、私が昭和54年(1979年)の1~2月頃に書き上げたものと思われます。大学4回生として3月の卒業を前に、受講していた「歴史地理学(担当・金田章裕先生)」でのリポート課題で提出した内容です。そのリポートの原本は、提出したままになっているのか、講義中に返却されたのか、今となっては不明ですが、最近になって、たまたま学生時代の書物などと一緒に、そのリポートのコピーを発見しました。読み返してみて、かれこれ40年以上前の、学生身分の作文ではあるものの、一般的にも十分理解できるし、我ながらよくまとまっているなと感じました。このホームページ上には、他にも卒論「亥の子行事について」や、卒業後に丹波地方の民俗調査を行った内容をまとめた「口丹波民俗誌」などをアップしていますが、この愛宕山に関するリポートも、私の学術的な産物として、載せてみてもよいかと思った次第です。全国にある愛宕信仰の、総本山というべき京都の愛宕神社、「火伏せの神さん」という印象以外に、あまり詳しい変遷などを知らない方もあるかと思いますので、どうぞご参考にしてください。

 

 なにぶん執筆したのが学生時代、文章力的にも拙い表記が目立ちましたので、今回、全体の構成や文脈はそのままにして、文節の区切り、ですます調への変更、等々、読みやすく再編集しました(もちろんアナログ資料をテキスト化する作業込み)。また関係するものの写真(最近撮った写真なども含む)を掲載しております。パソコン、インターネット、ウェブページ・・・便利な時代になりました。

2021.5.10.

 

愛宕神社参道での私(1978.10.撮)

愛宕山の歴史地理的景観

 

ー境(さかい)という概念を中心としてー

 

 

はじめに

 

 私は昨年の10月(注・1978年)、佛教大学の史学科の伊藤唯真研究室を中心にして活動している佛教大学民俗学研究会のメンバーと、愛宕山に登りました。古くから代参の拠点となっている愛宕山には、愛宕神社があり、毎日全国から講の代表の人がやってきます。人々は愛宕神社が火伏せの神であり、古くから各家庭の台所に神社でいただいた御札を貼り、火の用心を願うのです。そういった人々の信仰の対象たる愛宕山が、京都にそびえているのに、まだ一度も行ったことがなかったので、実際に自分の足で登って、実感してみようというのがねらいでした。

左から馬場さん、伊藤君、中島さん、私(1978・撮)
左から馬場さん、伊藤君、中島さん、私(1978・撮)

 愛宕山は、山城国と丹波国との境に位置していて、海抜924メートルという、京都市内では最も高い山です(比叡山はそれより約80メートル低い)。そして、その周囲には海抜300メートル以上の群山をめぐらせているため、比叡山のような美しさはありませんが、地味な景観ながらも険しい山道と、広く続く山々が、京都市民には頼もしい存在となっているように感じられます。

 歴史的には、比叡山のような大きな事件や権力闘争といった事象は無いものの、千年の都に近いという立地条件のもと、早くから宗教上の霊場となったり、近世に至っては広く民間の信仰をを集めたという事は、愛宕山がただの山でないことを物語るものではないでしょうか。

 

【参考・大城功『京の山々(3)』昭和30年 豊書房】

嵯峨野からの愛宕山(2021・撮)
嵯峨野からの愛宕山(2021・撮)

 私の居住している亀岡市内には、先述した愛宕神社への代参講である「愛宕講」という集落や町内単位の組織が多くあります。また子供が生まれ、その子が1歳~3歳の間に愛宕山に参拝すると火事にあわないといい、子どもを背負って登る習慣もあります。歌謡集などにも、

 

 

・・・伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参り・・・

【『日本古典文学大系』岩波書店】

 

 

とうたわれているように、その信仰には根強いものがありました。亀岡から京都市内へ行くためには、現在の国道9号線、老いの坂峠のルートが一般的でしたが、かつては保津川から嵐山に抜ける渓谷に沿って、水尾や愛宕神社参道などを通るルートもありました(本能寺の変の際の「明智越え」が有名)。それらは逆に言えば、京の都から、他の地域へ向かう入口でもありました。

 

子どもを背負った私(1989.10.)
子どもを背負った私(1989.10.)

このように人々の生活に根ざした信仰の拠点としての愛宕山・愛宕神社が、どのように成立し変遷し、今日のような姿となったのか、入手出来うる書物や文献を参考にして考察してみたいと思います。 

 

愛宕神社の由来

 

亀岡市千歳町にある愛宕神社(2018・撮)
亀岡市千歳町にある愛宕神社(2018・撮)

 愛宕山頂に鎮座する愛宕神社は、もと丹波国桑田郡国分寺(現在の亀岡市千歳町国分)に祀られていた地方神でしたが、その後、鷹峰の北西、釈迦谷山に移され、天応元年(781)には、僧慶俊によって、この山上に祀られたと伝えられています。この頃の事情について、京都市の編纂した『京都の歴史』1巻には、

 

 

比叡山や鞍馬寺が王城の鬼門にあたる東北の守護に任じたのに対して、西北方から王城を鎮護したのは、愛宕山頂にある愛宕大権現である。元来愛宕神は、丹波国に祀られていた神で、貞観6年5月に正六位上から従五位下に神位を陞された愛当護(あたご)神のことである。貞観14年11月には従五位上になり、元慶3年(879)閏10月には従四位下に陞叙している阿当護神も同じ愛当護神のことであって『延喜式』神名帳に、丹波国桑田郡阿多古神社とされているのがこれにあたり、現在も亀岡市に鎮座している。この丹波の愛当護神がそののち山城国愛宕郡鷹峰に勧請され、それがさらに現在の愛宕山に移されたものだと伝承する。

【京都市『京都の歴史Ⅰ』昭和45年 学芸書林】

 

 

と説明されています。つまり地方神としては、古い由来を持ちながらも(祭神はイザナミノミコトの子、カグツチノミコトとされている)、今日みられる場所に移ったのは、平安京が造られるころの事といえるのです。ここで興味深い点は、阿多古神社が、丹波→山城愛宕(おたぎ)郡→葛野郡へと移行した点です。この事に関して上田正昭氏は、前掲書で、

 

 

愛宕郡出雲郷の集団は、丹波の出雲氏との関係が考えられる。丹波地方にも出雲人が居住していたことは『日本書紀』の崇神天皇六十年の条に、丹波の氷香戸辺の子が宣託をして「出雲人よ、鏡と玉とをもって神まつりをせよ」と告げたという説話にもうかがわれる。

 

 

と指摘し、現在の亀岡市の式内社には、出雲神社など出雲系の神々を祀るところが多い事に注目し、また愛宕神社の奥宮にはオオクニヌシノミコトなど出雲系の神が祀られていることと関連させて、神社の移行と出雲人の移動を神々の系譜を材料として想定したのです。

 

 つまり、神社の移行は、出雲人の山城国への定住にともなって行われたものであると説いたのです。

 

 

 

【下図:出雲氏が丹波国から山城国へ移動してきた ( 京都市『京都の歴史Ⅰ』P.86   昭和45年 学芸書林 ) 】

都の東には比叡山
都の東には比叡山

 

アタゴの語源

 

 神話によると、祭神カグツチノミコトの出生にあたって、母神を焼き殺したため仇子(アタコ)または熱子(アツコ)と名付けられ、それにちなんで愛宕(阿当護、阿多古、愛太子)の名が生まれたといわれております。また、山中襄太著『地名語源辞典』には次のように記されています。

 

 

アタゴとはアイヌ語でatakk(もえる束を持って来る、タイマツを持って来る)のこと。京都の愛宕神社にはタイマツを持って来る祭りの儀式があると中島利一郎氏はいう(東洋言語学の建設P.72)。坪井九馬三氏は台湾のアミ族の語rotok(mountain・山)のなまりで、男山のオトコも同義だという(ロトク~オトコ~オタギ~アタギ)。安田徳太郎氏は、レプチャ語で「山頂、頭」をa-tyakともa-yamともいうが、前者が日本語アタゴに、後者が日本語アタマになったのだという。

 

 

一方、柳田国男氏は、アテという語が、こちらから見えぬ側、遠近のオチなどと同じ語だとし、人が最初に入りこんだ場所から見て、他の側面を指す語をアタゴというとし、京の愛宕山なども、以前の登り口は丹波の方であった、と興味深い解釈をしています。

【『定本柳田国男集 第20巻』(「地名の研究」) 1962年 筑摩書房】

 

 

 神話の語源の真偽は定かではありませんが、その他の説には、それぞれうなずける点もあり、決定しがたいところです。ただ柳田氏の指摘は、前述の上田氏の考え方と通じるところがあります。そして山城国愛宕郡を「オタギ」と読む事とも関連があるものと思えます。おそらく神社名の愛宕の漢字は、愛宕(オタギ)郡の漢字からきているものであると言えますが、アタゴの語源については、それ以前の起源を考えねばならないようです。

 

愛宕神社
愛宕神社

 

愛宕山に登場する神・人

 

鞍馬の天狗モニュメント(2018・撮)
鞍馬の天狗モニュメント(2018・撮)

 

 中世、この山は山岳仏教の霊地として、神仏習合し、愛宕大権現と称しました。そして唐の五台山になぞらえて、山中の五峰に五寺(白雲・月輪・神護・日輪・伝法)を建立し、修験道七高山の一つとされたのです。『太平記』には、

 

 

鞍馬ノ奥僧正谷ニテ愛宕・高雄ノ天狗共ガ、九郎判官義経ニ授ケシ所ノ兵法ニ於テハ・・・・

【『日本古典文学大系』岩波書店】

 

 

として、義経が愛宕山の天狗と修行した記事もみえます。ここで言う天狗とは、鼻の長い架空の動物のことでなく、特殊な修行を行なう僧たちであったと思われます。それほど愛宕山は険しい山とされ、『かげろふ日記』などにも、愛宕山や清滝の方に人が隠れたと言って大騒ぎする事も記されているのです。

【「人にもみえ給はで、にげいでたまひけり。愛宕になん、きよたきになど」『日本古典文学大系』岩波書店】

 

 彼ら天狗たちは、太郎坊と呼ばれていましたが、その呼び方は近年に至っても、雲の名として呼ばれていたことを奈良本辰也氏などは言っています。

 

 

近ごろはあまり聞かなくなったが、京都では方角によって雲に名前がついていた。西北に出る雲を「丹波太郎」東南を「奈良次郎」西南を「和泉三郎」東北を「近江小太郎」という。

【奈良本辰也『京都故事物語』昭和48年 河出書房新社】

 

 

このように呼ぶようになったのも、西北愛宕山に雲がかかり、何か天狗を連想させる様に人々には見えたのではないでしょうか。『御伽草子』などにも、

 

 

いづくよりとは見えねども、からかさほどの黒雲、愛宕の嶽に飛び来り姫君の御前に舞下る。

【『日本古典文学大系』岩波書店】

 

 

などとあり、さらに『義経記』には、

 

 

愛宕山の方より黒雲俄に出来て、洛中にかかると見えければ、八大龍王鳴り渡りて稲妻ひかめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を出し、國土安穏なりしかば。【『日本古典文学大系』岩波書店】

 

 

とあって、愛宕山には竜神、雷神が住みついている如く記されています。

 

 

京の都
京の都

 このように、険しい山であるため、得体の知れない何かが住んでいるように想像するのも当然であるし、夏の夕方、西北から起こってくる入道雲と雷、その恐ろしさから、いろいろな連想を生んだものと思われます。愛宕神社が火の神であることも、雷神を指しているとも考えられます。

 

 ところが、愛宕神社の神使は猪です。先述したように、鳥居の両柱には猪が描かれていて、この足をなめると次の参詣にも疲れないと言われています。この猪と愛宕神社との関係について、井上頼寿氏は『京都民俗誌』の中で、五台山の一つ神護寺との関連を挙げ、この地を開いた和気清麻呂が猪と因縁があり、また猪は火を好むところから、その神使としたとあります。愛宕神社が火伏せの神として祀られるのも、そういうところから来ているのでは無いでしょうか。例えば、民間行事として全国的に行なわれていた「亥の子」なども、「亥(猪)の日に炬燵を入れると、火のあやまちがない」と言われているように、猪と火とは近い関係にあるようです。

愛宕神社の鳥居にある猪のレリーフ(1978・撮)
愛宕神社の鳥居にある猪のレリーフ(1978・撮)

 

愛宕神社の役割

 

 愛宕神社の役割を考える上で一つの指標となるのは、神社のある愛宕山が、山城国と丹波国との国境にあるということです。つまり結論を先に言うならば、都を守るために祀られた境の神としての性格があると考えられます。それというのも、京都は常に政治経済の中心地であり、それゆえに戦乱も多く、また追放され非業の死をとげたものも多かった(菅原道真など)。それらが、御霊神と呼ばれて怖れられていたことは確かで、そのような疫神たる御霊を遮り、追い返すために「サエノカミ(さえの神)」を祀るのです。このサエノカミが、しばしば賽の河原などと称する墓地となったり、道祖神として村境に祀られている例も多くあります。『宇治捨遺物語』には、

 

 

今は昔、せいとく聖と云聖のありけるが母の死したりければ、ひつぎにうちいれて、ただひとり愛宕の山にもて行て、大なる石を四のすみに置きて、そのうへに此ひつぎをうち置きて・・・【『日本古典文学大系』岩波書店】

 

 

とあり、愛宕山を死者の行く場所(墓地)として考えられた時期があったことを示しています。

 

 これらの死者の行く所としての性格を示す習俗や事例から、もう少し深く考えてみることにしましょう。まず愛宕神社の代表的な行事として、愛宕千日詣があります。

 

 

7月31日(もとは陰暦6月24日)京都市右京区上嵯峨の北部にある愛宕山上に鎮座する愛宕神社に参拝すると、平日の千日に当たるというので、この日の鎮火祭には参拝者がはなはだ多く、参詣者はおのおの松明をともして登山し、延々たる火の行列が山上山下に続く。この松明は照明の目的というより、火祭の行事としてともすもので、山上で防火の御札を受け、樒の枝を買って帰り、竈の上にはさんで火災除けにする。

【鈴木棠三『日本年中行事辞典』昭和52年 角川書店】

 

千日詣(1985.7.31.撮)
千日詣(1985.7.31.撮)

 

 その他、愛宕火と称して、全国各地に勧請され祀られている「愛宕」と名のつく所で、同様の行事があります。

 

 

兵庫県高砂市米田町で子供たちが麦わらの松明を燃し、「おたぎさんの御精霊(ごしょうろ)、御精霊」と唱えて走り廻った末に、川の堤にある愛宕の祠に捨てて帰る。京都府北桑田郡で愛宕火と呼んでいる柱松の行事は、7月24日に行なわれる。

【鈴木棠三『日本年中行事辞典』昭和52年 角川書店】

 

 

これらの事例について、柳田国男氏は、京都市にある珍皇寺が、別に愛宕念仏寺と称することに注目して、

 

 

この六波羅の寺には本名がちゃんと有るに拘らず、昔から愛宕寺の名を以て知られ、その理由が説明せられて居ない。一方には京都の西北に屹立して、町のどこからでもよく見える愛宕山は今でも信心の者が登拝して、必ず樒の枝を折って還る山であった。ここへ家々の祖霊を迎へに行く風習が嘗てはあり、今では其信仰が改まって、一部分だけ町中へ移ったのではないかどうか。【『定本柳田国男集 第15巻』(「魂の行くへ」) 1963年 筑摩書房】

 

 

と解釈しています。こういった民俗的な研究成果を、側面から実証するのは歴史的な事実です。そこでふたたび考えねばならないのは中世当時より盛んに広がった神仏習合だと思われます。『朝野群載』には、

 

 

法橋上人位奝然(清涼寺住僧)挙七高山阿闍梨奏状曰、愛宕五峰、因准大唐五台山、奉為鎮護国家、毎年拠神宮寺(白雲寺)可修文珠秘法、即便奏聞、申置阿闍梨了、康和五年八月。

【『古事類苑』神祇部2 昭和42年 吉川弘文館】

 

 

とあり、権現として祀られていた愛宕神社に白雲寺と称する神宮寺(=神仏習合思想に基づき神社に附属して建てられた寺院)が存していたことがわかります。その後、地蔵信仰(地蔵は地獄に落ちて苦しみにあう死者を,地獄の入口で救済すると信じられることから,地獄の入口を村境にあてはめて,境の神の信仰と結びついている。『ブリタニカ国際大百科事典』解説)と結びつき、勝軍地蔵が祀られるようになったことは、いよいよ愛宕山がサエノカミ(神)の霊場となっていることを示すものと思えるのです。つまり冥界と現実の境に立つ地蔵が、境の神の性格をも帯びて伝えられたと説明がつくのです。和歌森太郎氏は、これらの関係を次のように述べています。

 

 

以上のようにして、地蔵が道祖神と習合していることを知ると、愛宕神社の本地が勝軍地蔵となっている点についても、解釈がつきそうである。(略) 京都においては、東は東山の将軍塚、北は北白川の将軍山、西は愛宕、南は男山をもって四方の鎮めとする観念が伝承しており、しかも柳田国男の『石神問答』に緻密に考証されているように、将軍山、将軍塚は将軍が塞神の転訛と考えられるから、さえの神のまつり場である。京都市の四方を鎮める山は、同時にその内と外とを限るところであったから、そこに塞神をまつったことはありうることであろうし、西の方の急崖を成す愛宕に勝軍神がまつられることも無理はない。そのさえの神が地蔵と結びついて観念されたのであれば、勝軍としての地蔵が置かれることも自然の進みであろう。

【和歌森太郎『神と仏の間』昭和50年 弘文堂】

 

 

つまり、愛宕山は境の神としての性格を有しつつも、民間にあってはそれが徐々に火の神として変化し、今日全国的にも広い信仰を集めるようになってきたのです。

 

 

 

【下図:王城=都を守護する社寺は周囲に多く置かれた ( 京都市『京都の歴史Ⅰ』P.327  昭和45年 学芸書林 ) 】

京都タワーから愛宕山を望む(2014・撮)
京都タワーから愛宕山を望む(2014・撮)

 

おわりに

 

 このレポートの中で、一つの手がかりとして取り上げた「境」という観念は、民俗学が地理的な分野を取り入れて発見したものと言えるのではないでしょうか。つまり、県境や市町村の区画割等々、行政的な区分を指すのでなく、そこに住んでいる人の意識としての区分、内部と外部、聖と俗、安心する場と予測できない不安な外の世界、といった境目が存在していると考えられるのです。

 

 この愛宕山を境とした例は、京都の町全体からみた境という位置づけなので、やや広範な領域を示すものですが、例えば滋賀県や奈良県に多い「勧請吊り・カンジョウツリ・カンジョウナワ」は、村の境を示すものと考えられています。また、ある村では、隣接する峠をその境としているところや、村の出入り口付近の道祖神や小祠などの石碑をもって境界としているところもあるでしょう。さらにもっと小さな概念で考えるならば、家の内と外の間にも境はあるものと言えるでしょう。

 

 こういった考え方に立って地理を見ていくのも興味深いものであるし、今後の人文科学は、それまでの伝統的な学問体系に加え、社会学・人類学・民俗学の成果を取り入れながら研究されていくのではないかと考えます。それぞれの学問の特性と限界を補完しつつ、取り上げた課題に対して研究を進めていくことが大切ではないでしょうか。

 

太田貴久男

 

 

村の内と外を示す勧請吊り(滋賀県観音寺村 2017.6.撮)
村の内と外を示す勧請吊り(滋賀県観音寺村 2017.6.撮)

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