My Favorite Songs 1

私の好きなこの1曲 (★あ行~)★さ行~ ★た行~ ★は行~ ★ま行~ 

なつかしの70~80年代の洋楽を、自分自身の思い出とともに紹介します(以前にブログなどに掲載した内容をベースにしていますので「今から○年前」といった表記が現時点と少し違ったりしているかもしれません・出来るだけ修正しています)。曲紹介よりも思い出のほうが長くなっている箇所はご了承ください。また当初、紹介したいシングル盤のジャケット写真を添付しようと思ったのですが、著作権のこともあり、いろいろ考えた末、アマゾンのアフリエイト(アマゾンの販促システム=クリックするとアマゾンの商品にリンクします)の機能を使ってイメージを掲載することにしました。したがって主にシングル盤の曲紹介ですが、画像はアルバムのものであったりしていることを、はじめにお断りしておきます。順番は、アーティスト名のあいうえお順です。

 

(追記)編集機能のひとつにユーチューブの動画貼り付けがあり、せっかく曲を紹介しているので、ぼちぼちですが、掲載していきたいと思います。<記 2020.1.13.>

★あ行

ABBA(アバ)「ダンシング・クイーン」

 ビョンル&ベニーというスウェーデン出身の男性デュオグループが「木枯らしの少女」という曲をヒットさせた。1972年の発売なので僕は高校生まっさかりだった。このグループはロックグループに入れてよいものか難しいところだ。今考えるとポップスが無難なところだ。その曲はしかし妙に記憶に残っている。たぶん深夜放送などでよく流れていたのだろう。エコーの良く利いたボーカルに野太い感じのアレンジが施され、ぐいぐい押していくような曲になっていて。僕はこの曲に、なぜかロックというイメージを持っていた。
 この二人組の一発屋が、それぞれのパートナー(フィアンセ)を合流させて結成されたのがABBA(B同士は背中合わせになっていて、もちろんこのビョンル&ベニーの頭文字をとっている、なので残りの2つの文字「A」は女性二人の頭文字のはず)である。そして1977年の大ヒットが、この「ダンシング・クイーン」である。女性ボーカル(コーラス)が入ったことで、ポップス色を前面に出し、万人向けのヒットグループとして約10年ほどの間、日本を中心として世界的な人気グループとなるのである。ただ日本での大人気とは対照的に、アメリカ音楽シーンなどでは、ややキワモノ的な扱いを受けていたらしい。
 「ダンシング・クイーン」は、これでもかというくらいのサビ的メロディを盛り込んだアレンジになっている。イントロしかり間奏しかり歌の合い間しかり、格調高いストリングスが随所にちりばめられている。じっくり聴けば聴くほど食傷気味になる(今は)、が、しかしこの曲がヒットしていたころは、うん、なかなかいい曲だ、素晴らしい、凝っているな、などと単純に感じていた。なにか、良い曲コンテスト入賞作品、という雰囲気がある。いいとこのお嬢ちゃん、といったイメージかもしれない。
 僕はこのABBAのCD(ベスト盤)を所有しているが、面と向かってじっくり聴いたことはない。この「ダンシング・クイーン」以外にも「チキチータ」「ギミーギミーギミー」等々たくさんのヒット曲満載で、値打ち的には素晴らしいアルバムなのだが、とても「濃い」のである。ベスト盤はそもそもそういうもんであるが、息を抜けるような楽曲が少ない。ふつうの感覚ならじっとりとしたバラードナンバーの「悲しきフェルナンド」といった曲でさえ「濃い」と感じてしまう。この感覚は曲のアレンジだけがどうのこうの、というだけではなさそうなのである。実は、この2組のカップルは、いわば、いい男といい女のセットだ。特にスウェーデン美人の二人の「A」さんたちのルックスは際立っている(いや際立っていた、と訂正)。したがって「こんな美人の奥さんのいる家庭は・・・、生活は・・・」との思いがつきまとうのである。
 ABBAを「濃い」と感じるのは案外このようなことによるかもしれない(僕の主観入り込みの結果)。そうであれば、ABBAは聴きやすくてあっさりとしたグループ、と感じる人もいるのだろうな、と思ったりもする。

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イーグルス「ホテル・カリフォルニア」

 アメリカ建国200年の年にあたる1976年のヒット曲。解説によると、このレコーディングに、合計11本のギターがオーバーダビングされていたとか(凄すぎる!)。
 当時、僕は大学2回生だった。そしてこの曲をよくラジオで聴いていた。何度聴いても飽きのこない曲だ。ギターソロのところなんか、僕にも弾ければなぁ、などと思っていた。ある時、ヒットチャートの番組だったと思う、番組のパーソナリティの湯川れい子さんが、この曲を紹介するときに「アメリカはこれでいいのか、これからどうなるんだ」という内容の話をしたのである。僕には、この曲は大ヒットしたし、陽気なアメリカのウェストコースト・サウンド、というイメージがあった。しかし実はそうではなかったようだ。
 この曲の歌詞は、ハイウェイを旅する客がカリフォルニアホテルへ宿泊し、そこでのもてなしや、ホテルで見聞きし、感じたことを綴っている。しかしよく歌詞を見てみると、後段部分にちょっと気になる箇所があった。「このホテルに居るのは囚われの身となった者ばかりなのに祝宴が始まろうとしているんだ(要約)」。
 1976年は、まだベトナム戦争の後遺症にアメリカ全土の若者が失望感を抱かされていた頃である。そんな病んだ国民をよそに、国の方では建国200年を祝っている。若者たちには、その祝宴になかなか共感できない気分があった。本当にこの国はこのままでいいんだろうか、というのが、この曲に込められたメッセージだったのだろう。つまりはカリフォルニアホテルは、アメリカ合衆国のことを言っていたのだった。湯川れい子さんの曲目説明は、そのことを言っていたのだ、ということが、ずっと後になってから分かったのである。この曲のヒットも手伝って、同時期、日本人のアメリカ西海岸への渡航が飛躍的に伸びたらしい。しかしながらこの「ホテル・カリフォルニア」の歌詞の意味を何人の日本人が理解していたことだろう。  

イーグルス「テイク・イット・イージー」

 イーグルスは、1971年に米国ロサンゼルスで結成される。オリジナル・メンバーは、ポコでプレイしていたランディ・マイズナー(ベース)、フライング・ブリトー・ブラザースに参加していたバーニー・リードン(ギター、マンドリン他)、J.D.サウザーとのデュオですでにプロ・デビューを果 たしていたグレン・フライ(ギター、ボーカル)、そしてドラマー兼シンガーのドン・ヘンリー(ドラムス、ボーカル)の4人である。曲の内容は「Take it easy(=無理しないで・気楽に)」の言葉そのままで「くよくよしないで気楽に行こう」と歌っている。
 彼らが知り合ったきっかけは、1971年にリンダ・ロンシュタットが実施したサマー・ツアーのバックアップ・メンバーとして全員が招集されたことにある。その後、1972年の初めにリリースされたリンダのサード・アルバム「リンダ・ロンシュタット」のレコーディングでも顔を揃えた4人は、これを機に意気投合し、イギリスへ渡って英国人プロデューサー、グリン・ジョーンズのアドバイスのもとでイーグルスとしてのデビュー・アルバム「イーグルス・ファースト」を作り上げる(1972年リリース)。
 この「テイク・イット・イージー」(作詞・作曲 ジャクソン・ブラウン、グレン・フライ)は、イーグルスのデビュー・アルバム「イーグルス・ファースト」からシングル・カットされて全米チャートのトップ10入りを果 たした彼らの記念すべきデビュー・シングルである。
 ギター2本のストロークでイントロが始まり、ベースとドラムスが加わる。ボーカルはグレン・フライだが、随所にコーラス部分があり、中盤ではバンジョーのアルペジオが入り、カントリー・ミュージック風のアレンジになっている。もともとウェスト・コーストの音楽シーンから登場したバンドのため、いかにもアメリカを代表するルーツ・ミュージックの色彩があるのは当然だが、別に作詞を担当したジャクソン・ブラウンのバージョンと比べると、ややロック色が濃い感じである。この流れは、その後の「ホテル・カリフォ

ルニア」という大ヒットの予兆を感じさせるものがある。どちらにしても、70年代、イーグルスのデビュー曲、ウェストコーストの名曲である。
 ついでの話であるが、この曲は、ウルフルズの「かわいい女」のもと歌なのだそうだ。そういえば「Take it easy ~」と「かわい~い女~」のところは同じような気もする。  

ヴァン・モリソン「クレイジー・ラブ」

 アイルランド出身の孤高のソウル・シンガー、ヴァン・モリソンのワーナーからの2作目のアルバム『ムーンダンス』に入っているラブ・バラード。日本語に訳せば「熱烈な愛」というタイトルになる。
 アイルランドは多くの独特の雰囲気を持ったミュージシャンを輩出している国である。U2、エンヤ、ザ・コアーズ等々。そんな土壌の中でもヴァン・モリソンは、どちらかというとアメリカの黒人音楽(ブルース、ソウル、ジャズ)に近い志向がある。それは小さい頃より音楽好きな両親の影響により、カントリー音楽やブルースを聴いてきたことによるのであろう。もともとアイルランドの国民性として、音楽好き、酒(ウィスキー)好き、という特徴がある。そんな風土の中では異色のソウル・シンガーであろう。
 「クレイジー・ラブ」は数年前にライブハウスの「たくたく」で古田君(なまず兄弟バンマス・地元亀岡出身のシンガー)が歌っていた。彼はヴァン・モリソンのことをいたく気に入っていて、この曲も丁寧に歌い上げていた印象深い曲である。

ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」

 1973年にアメリカ西海岸でヴァン・ヘイレン兄弟を中心に結成。1978年にデビューしたハード・ロック(ヘビー・メタル?)・バンド。1984年に出した6作目のアルバム『1984』で大ブレイク。そのアルバムの1曲目を飾るのがこの「ジャンプ」。シンセサイザーのイントロにベースが重なり、軽快な曲調でデイヴ・リーのボーカルが始まる(このアルバムの印象を強くしている1曲だ)。間奏にはしっかりとヘビーなヴァン・ヘイレンのギター・ソロが入る。この曲はハード・ロックというには、ややポップな仕上がりとなっている。その理由は、ギターやボーカルがややもすれば目立ちがちなこの種のグループでそれらを少し抑え気味にし、シンセサイザーが効果的にアレンジされているからであろう。
 この「ジャンプ」に出会ったのは、大学の体育館が新築された時だった。そのこけら落としとして、実業団女子バレーボールの試合と、新体操の模範演技が披露された。新体操など、直(じか)に見るのははじめてのことで、カラフルなレオタード姿で、音楽に合わせ、ボールを使ったり、布をひらひらさせて、とてもなまめかしく、セクシーだった。その女子新体操の演技の後に、男子新体操というプログラムがあった(へーっ、新体操って男子もやるもんなんや、とはじめて知った)。女子に比べると、全員が同じ体操着(白でもっこり)を身につけている関係で、華やかさ、色彩のバラエティはないが、その演技の内容は、男子らしく迫力のあるものであった。高く飛んだり、敷かれたマット全面を使ったアクロバット的な演技で、まるで、イルカショーを見ているようであった。その男子新体操で使われていた曲がこの「ジャンプ」だった。曲に合わせてうまいこと飛んだり跳ねたり、よくこんな曲に合わせられるもんだと感心した思い出がある。
 そして十数年後、付属の幼稚園に勤務していた頃、毎年夏休みの終盤に親子を集めて盆踊りなどを行うイベントがあった。幼稚園の先生の指導のもと、親子でダンスをしたりゲームをしたりするのである。その行事のフィナーレを飾るイベントは「花火大会」と決まっていた。花火といっても遊戯用のものではあるが、主に打ち上げ花火をこれでもかと購入する。それは派手な花火となる。そのスタートを飾るBGMにこの「ジャンプ」を使わせてもらった。暗闇の中で最初に打ちあがるひと筋の花火、そしてヴァン・ヘイレンのBGMに続いて花火の乱れ打ち・・・なかなかピッタリの演出と自己満足している。

ヴィッキー「恋はみずいろ」

 この曲はポールモーリアの演奏の方が有名だが、僕はヴィッキーの方が好きだ。日本でヒットしたのは1969年というから、僕は14歳の頃である。「Comme l'eaur Comme l'eaur qui coure」 の部分が「こもろ~こもろ~聞く~」と聴こえていた思い出がある。
 ヴィッキーはギリシャ生まれ(1949)の彫りの深い美人アイドル歌手である。CDのライナーノートによると本名はヴィッキー・ヴァシリキー・レアンドロス・ババサナシウという恐ろしく長い名前だ。この曲はフランス語で歌っている。また英語や日本語でもヒット曲があり、当時ヨーロッパ・アメリカ・日本でも人気があった。ヴィッキーの歌った日本語の曲としては「待ちくたびれた日曜日」「私の好きなチョコレート」「時の流れのように」などがあるが、まあよほどのタイミングで知らない限りマイナーな曲ではある。ちなみに僕は知ってはいたが・・・・。それ以外にも「悲しき天使」というメリー・ホプキンのヒット曲も歌っていて、日本では両方ともヒットした。声質ではヴィッキーの方がキュートな感じである。

エリック・クラプトン「ティアーズ・イン・ヘブン」

 1991年3月に不慮の事故で息子、コーンを亡くしたクラプトンが、失意の中で、その息子に向けたメッセージとして作ったのが「ティアーズ・イン・ヘブン」である。クラプトンとイタリア人女優、ロリ・デル・サントとの間に生まれたのが1986年の夏(8月)。その秋に制作したアルバムには、息子の誕生月にちなんで『オーガスト』とされた。実はそのコーンの母、ロリとは、正式に結婚していなかった(できなかった?)。しかしクラプトン自身が少年時代に同じように両親と一緒に暮らせなかった不幸な過去があり、自分の息子に同じ目にあわせたくないと思っていたようだ(それでいろいろと努力をしたらしい)。が、結局、結婚には至らなかったようである。そしてコーンが5歳になる直前に事故が起こったという。しかもその時には、息子の住むアパートの10ブロックほど離れたホテルに滞在していたという。
 クラプトンの周りの人間は、またドラッグと酒に溺れる生活をするのではないかと心配したという。確かに息子の事故後数ヶ月間、マスコミの前から姿を消してしまった時期があったそうだ。ところがその間、クラプトンは酒を飲むのではなく、ゲームボーイで「テトリス」をしていたという。そしてそのゲームに明け暮れていたらしい。後に彼は「テトリスは精神治療的ゲームだ」と言ったという(ある意味周りの人間は安心したであろう)。そしてその5月、久々にギターを手に取る。それは小さなナイロン弦のギターで、爪弾いているうちに2曲の小品が出来た。そのうちの1曲が「ティアーズ・イン・ヘブン」だった。「我が息子よ、私が天国に行ったときに憶えていてくれているか(要約)」という内容である。
 この曲は翌年公開された映画『RUSH』のサウンドトラックに取り上げられた。またアンプラグドというコンサートを収録したアルバムでも演奏しており、これはその年のグラミー賞を獲得している。
 クラプトンはもともとブルース・ミュージシャンであり、曲の大半はブルースである。しかし「ワンダフル・トゥナイト」「チェンジ・ザ・ワールド」そしてこの「ティアーズ・イン・ヘブン」は、楽曲としてもポピュラー・ミュージックとしてカテゴライズされるほど、誰にでも好まれ聴かれる素晴らしいバラードである。アンプラグド以後にスタジオ録音されたバージョンではストリングスなども加わり演奏も厚みのあるものになってはいるが、やはりこの曲は生ギターと軽いパーカッション程度の編成で聴くのが一番心地よい。

エリック・クラプトン「オーバー・ザ・レインボウ」

 数年前、三菱モータースのコマーシャル・ソングで使われていた。クラプトンのワールド・ツアーを収録した2枚組アルバム『ワン・モア・カー・ワン・モア・ライダー』の最後を飾っているスタンダードの名曲。
 「オーバー・ザ・レインボウ」は、E・Y・ハーバーグ(作詞)とハロルド・アーレン(作曲)により、1939年、ミュージカル映画「オズの魔法使い」のために書かれた曲。その主役を演じた当時14歳のジュディ・ガーランドが歌い、大ヒットした。14歳の少女が歌うには、テンポがゆっくりな事、冒頭からいきなり1オクターブもあがる、という難しいものであったが、ジュディ・ガーランドは見事に情緒豊かに歌い上げている。
「♪虹の彼方にある素敵な国へ、私も行けるはず・・・(要約)」という内容。
 それから約60年後、2001年のクラプトンのワールド・ツアーでは、24ヶ国80都市、100回以上のコンサートが行われ、最後にこの「オーバー・ザ・レインボウ」が歌われている。クラプトンにとって、このツアーは最後のステージと噂されていた。アルバム・タイトルの絵柄には、ギターを持った男(クラプトン)が、十字路(CROSS ROAD:クラプトンの音楽的基盤となった大御所、ロバート・ジョンソンのクロス・ロード・ブルースを意識したものらしい)に止まった車に乗り込もうとしている図が描かれている。新しい境地へ向かう、あるいは原点に戻る、そのどちらになっているのかは不明だが、コンサートの最後に「オーバー・ザ・レインボウ」を取り上げていることは、今後のクラプトンの方向性を示唆しているようである。

エルビス・プレスリー「Can't Help Falling In Love」

 エルビス・プレスリー。彼がいなければ、ビートルズもストーンズも出現していなかったかもしれない。また若者のトレンドの行方も別の方向になっていたかもしれない。それほど影響力の強い、そしてロック音楽をポピュラー音楽の座に押し上げた偉大なシンガーである。
 エルビスがプロとして活動を始めたのは1953年。1956年にリリースされた「ハートブレイク・ホテル」は彼の出世作。腰を振り振りギターを低く構えて弾くスタイルは当初、世間の非難の対象であった(現在のロックバンドのボーカリスト等のパフォーマンスは、彼の影響なしには語れない、その存在を知っていようが知っていまいが)。
 この「Can't Help Falling In Love」は邦題「好きにならずにいられない」でよく知られている。プレスリーがコンサートで一番最後に歌う曲としてファンには認知されている。この曲の元は、マルティーニの「愛の喜び」だという。それをヒューゴー・ペレッティ、ルイジ・クリート、ジョージ・デヴィッド・ウェイの3人の音楽家がプレスリー調に編曲したらしい。そして1961年に自ら主演した映画「ブルー・ハワイ」の主題歌となり、全米2位のヒットとなった。甘くしっとりとしたバラードで、激しいステージの最後、またはアンコールで歌うには最適の曲だっただろう。短い構成だが、心にしみる。
 多くのミュージシャンがカバーしているが、UB40のレゲエバージョンは数年前CMソングに使われよく知られている。その他、あのボブ・ディランもけだるい調子でカバーしているし、カナダ出身のロック歌手、コリー・ハートのバージョンもなかなか聴かせる。同時期、レイ・チャールズの「can't stop loving you(愛さずにはいられない)」もヒットし、can not help ~ing は、~せずにはいられない、という構文を覚えるのに当時の受験生への最適なテキストとなったであろう(実際、僕が中学生になったころに、この古いヒット曲の英語で構文を学んだ記憶がある)。

エルビス・プレスリー「この胸のときめきを」

 ロックンロールの草創期に「ハートブレイクホテル」で鮮烈なデビューを果たしたプレスリーは、一時期、なりを潜める時期があった。一説には肥満により音楽活動が出来なくなった、という話もあったが、1970年になって、ハワイでのライブ「エルビス・オン・ステージ」が全世界に衛星中継され再び世に出ることとなった。その時に歌っていたのがこのバラードだ。「When I say I need you~」という歌いだしで、そこから伴奏がはじまり、そして美しいメロディへと続く名バラードだ。そして多くのボーカリストがカバーしている。
 プレスリーのデビュー当時はリーゼント、皮ジャン、ロカビリー、といった言葉が似合う時代だったが、この「エルビス・オン・ステージ」からは、上下真っ白の飾り立てた衣装、オーバーアクション、エンターテイメントというイメージのプレスリーになった。僕はこのプレスリーがとてもかっこいい、とその頃に感じた。そしていつかプレスリーのような衣装を着て、ステージに立ってみたいと思った。
 その夢は案外早くやってきた。1973年だったろう、高校3年のときの学園祭で、友人の吹くサックスと合わせたバンドでステージの出演が決まった。そして1曲、僕のパフォーマンスをすることとなった。迷わずプレスリーをしようと思った。歌う曲はもちろん「この胸のときめきを」のはずであったが、僕自身の歌唱力不足、英語力不足により、結局、同時期に流行していた「バーニング・ラブ」になった。こちらの曲の方はアップテンポで、歌詞も憶えやすかった。衣装は「トレパン」と呼ばれていた上下白のトレーニングウェア(今、こんなダサい体操着はないだろう)に、バンドメンバーでピアノ担当の女の子(美術部)が、金色の大きなボタンとか、腰に巻く鎖のようなものまでを作ってくれて飾りつけた。あとストレートのズボンを広げ、ややラッパズボンのような仕様にした。これでにわかプレスリーが出来上がった。そしてサングラスをかけた(が、僕はメガネをかけている関係で、サングラス着用中は周りがまったく見えなかった)。
 当日はクラスの皆も応援に来てくれて、その時ばかりは、プレスリーのようなエンターテイナーの気分であった。懐かしい思い出であり、プレスリーの名前が出ると思い出すのである。

1973/亀岡高校体育館
1973/亀岡高校体育館

オーティス・レディング「THE DOCK OF THE BAY」

 1968年のオーティス・レディングの代表曲。R&Bのシンガーであった彼は、この曲をレコーディングした直後、飛行機事故により帰らぬ人となる。26歳の若さであった。短い音楽活動の中でも多くの名曲を生み出している。「リスペクト」「アイ・キャン・ターン・ユー・ルース(おまえを離さない)」「トライ・ア・リトル・テンダネス」「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」「サティスファクション(→R.Sのカバー)」等々、いっぱいある。上田正樹の初期のころ、京大西部講堂などのライブでこの「お前を離さない」を必ずアンコールで延々とやっていた。
 多くのヒット曲はあるが「ドック・オブ・ザ・ベイ」ほどポピュラーな曲は、R&Bシーンでも空前絶後。他の曲は知らなくても、この曲はどこかで聴いたことがあるだろう。なにしろ全米トップになった曲なのである(日本でも大ヒット)。R&B通の人に言わせると、この曲はソウルではなくてポピュラーだ、とジャンルから除外する向きもあると聞く。しかし僕は立派なR&Bであり、ソウルミュージックだと思う。
「港のドッグに坐って海をぼんやり見つめている(要約)」という内容。
 日本人アーティストでもカバーしている人が結構いる。忌野清志郎、大木トオル、柳ジョージも、上田正樹も、BOROなんかは日本語に訳して歌っている。それほどの名曲だし、聴くものの心を癒すし、歌っていて癒される。俗にAメロと言われるはじめの部分のけだるいメロディからサビへ繋がり、聴かせどころとなる(ここがボーカルの力量の発揮どころなのだが、アマチュアごときには難しい部分だ)。そしてまたAメロへ・・・・。間奏では口笛も出てくる。
 中学生のころにこの曲を聴いた。ブラックミュージックなどまだ興味のなかった時代だが、この曲だけは「いい曲」として心に残っている。数十年後に、自身のバンドで演奏するなんて想像することもなかった時代の話だ。

オーティス・レディング「トライ・ア・リトル・テンダーネス」

 「オーティス・レディングの歌は、第二次世界大戦後の世界の大衆音楽が咲かせた、もっとも美しい花のひとつだ。(中略)人間の悲しみのいちばん奥底から歌いかけてくれるオーティスの歌を、いまのぼくたちがますます必要とするようになってきている。(中村とうよう/1977)」
 音楽評論家の中村氏がこのようにアルバムのライナーノートに書き記している。そのオーティスは、1962年の秋、メンフィスのスタックス・レコードで自作の「These Arms of Mine」でデビューした。弱冠21歳の若さであった。その後、アメリカやヨーロッパで精力的に活動し、「Come To Me」「愛しすぎて」などがヒットし、世界的に知られるところとなった。デビューから5年後、1967年12月10日、ウィスコンシン州マディソン近くの湖「モノナ」上空で飛行機事故を起こし、湖に墜落、帰らぬ人となった。26歳、活動期間はわずか5年間であった。そして皮肉なことに、彼の最大のヒット曲「ザ・ドッグ・オブ・ベイ」は、翌1968年に全米ナンバーワンヒットとなった。
 この「トライ・ア・リトル・テンダーネス」は、ポピュラーのスタンダード・ナンバーである。それをオーティスなりにソウルフルに歌い上げている。はじめはスローなバラード調で、だんだんとテンポがアップし、最後はシャウトするほどに盛り上がる。日本人では上田正樹がコンサートなどでこの曲を歌っている(これまたオーティスを意識したノリノリの曲に仕上げている)。
 以前、テレビ番組で特別企画として「赤ひげ」という黒沢明作品のリメイクのドラマが放送されたことがある。この番組にさりげなく、「トライ・ア・リトル・テンダーネス」が使われていた。

オリヴィア・ニュートン・ジョン「そよ風の誘惑」

 1975年の全米ナンバーワンヒットである。この曲は、数年前にもダンス・ミュージックとしてリメイクされ、そこそこのヒットをしている。
 SONYのプレイステーションというゲーム機のソフトに「ダンス・ダンス・レボリューション」というのがある。床にマットを敷いて、その上にツイスターゲームのようなシート(コントローラー)を乗せ、その中央に立ってテレビ画面の指示に合わせて足を前後左右斜めに踏み込み、その正確さ機敏さを競うゲームである。数年前、我が家でも日頃の運動不足解消のためソフト・マット・専用コントローラーの一式を購入し、当座は毎日のように床をドンドン鳴らしていた(現在はほこりをかぶっている)。このソフトには、レベルに合わせていろいろな曲が入っている。KC&ザ・サンシャインの「ザッツ・ザ・ウェイ」はやや難しいレベル、といった具合。その中のもっとも初心者向けのレベルの曲が、このオリビアの「そよ風の誘惑」であった。かつて僕が大学生の頃に聴いたバージョンは、とても静かでそれこそ文字通りメロウな曲で、それがダンス・ミュージックにリメイクされているわけなので、はじめ、オリビアとは結びつかなかった。「あれ~、どっかで聴いたことあるな~」なんて言いながら、とりあえず足を動かさないといけないので、じっくりと思い出せずに必死でテレビ画面を見る目と足の間の反射神経を鍛えていたのである。
 一時期、オリビアは、日本の捕鯨文化に対して嫌悪感を持ち、「日本には行かない」と言っていたが、実際、その発言の2年後に来日し、各地で公演した(その発言の影響があったのかは不明だがコンサートの入りは芳しくなかったらしい)。この変わり身の早さは何であったのだろう・・・・。それにつけてもオリビアは魅力的な女性である。その後に映画とタイアップしてヒットした「ザナドゥ」「グリース」「フィジカル」などの姿を見ると、やはり男性側としては、捕鯨問題よりも、その美貌(およびボディライン)の方に関心がいく。数ある海外女性アーティストの中でもトップクラスの美人ではないだろうか。

★か行

カーペンターズ「遥かなる影」

 カーペンターズは1969年にビートルズのカバー「涙の乗車券」でデビューした兄妹デュオグループ。兄のリチャードはピアノ、妹のカレンはドラムスという楽器を担当しつつ、メインは二人のハーモニー。1970年代に多数のヒット曲を出している。
 2ndシングルがこの「遥かなる影(They Long To Be Close To You)」である。1970年のヒット、大阪万博のあった年である。「涙の乗車券」に比べると、かなり暗い曲調である。おそらくヒット当初、中学生の僕には、その良さを十分に理解出来なかったことと思う。しかしヒット曲は、ラジオを聴いていれば常に流れてくるものだ。自然とこの曲に慣らされていったのも事実で、今でもこのメロディは、何かの拍子で口をついて出てくるし、当時の懐かしい風景も同時によみがえる。切々と歌う、という形容がふさわしいかどうか分からないが、カーペンターズのたくさんのヒット曲の中でも名曲と言ってもいいのではないだろうか。
 1983年、妹のカレンは帰らぬ人となる。当時、カレンは結婚をしていたと思うが、兄との関係とか、そのことから生じた拒食症という病、ビッグアーティストとしての負担、等々、何かと噂があったが、あの聴くものを魅了する美しい歌声はもう生では聴くことが出来ない。しかし、残された楽曲の数々は、20世紀を代表する曲として、これからも消えることはない。

カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」

 オリジナルのカーペンターズは、この曲を1972年の『A song for you』というアルバムに収録している。ところがアレンジが気に入らなかったのか、翌年にスチール・ギターのアレンジを変更し(カレン・リチャード両名の要望)て再録音し、日米で、文字通りヒットチャートのトップに立った。
 アップテンポのカントリーっぽい曲調だが、カーペンターズ特有のメロディラインの美しさがある。歌いだしの大人しい目のメロ、さびから次第にテンポ良くなり、スチールギターの跳ねるようなアレンジが効いている。僕は、この曲がヒットしていたころは、万人向けの楽曲を提供しているアーティスト、カーペンターズ、という意識があり、少し腰を引いて聴いていた。嫌いではなく、むしろ好きなアーティストなんだけど、そう夢中になることはなかった。しかし、これまた今、聴いてみて、彼らのヒット曲の素晴らしさを実感している。

カーペンターズ「愛のプレリュード」

 英語題「We've Only Just Begun」。一時、ウェディングソングの定番だったようだが、今はあまり使われないか(「愛と青春の旅立ち」・・これも古いか)。カーペンターズの3枚目のシングルヒット曲となる。以前、職場にピアノおよびキーボードのすごく上手い女性職員がいた。僕がバンドを始めたころ、何度か一緒にやったことがある。ある年の年末に忘年会があり、彼女のキーボード演奏というコーナーが余興としてあった。1曲は打ち込み伴奏入りのフュージョンぽいインストルメンタルナンバー、2曲目にこの「愛のプレリュード」だった。そしてボーカルとして、僕がシャシャリ出ることになった(なってしまった)。選曲は彼女の方からの申し出で、僕は初チャレンジの曲を必死で練習した。しかし、この曲はけっこう「ため」があり、難しかった。しかし、そこはボーカルといってもキーボード演奏のつまのようなもの、その演奏の方を際立たせる結果となったのは言うまでも無い。この曲にはそんな想い出がある。

カーラ・ボノフ「涙に染めて」

 イーグルス・ファミリーの一員、カーラ・ボノフのセカンドアルバム「ささやく夜」に収録されたシンプルな曲。1979年の作品で原題「Trouble Again」。ボーカルだけの歌いだしではじまり、ドーン・ドーンというベースその他の楽器が入る印象的な曲だ。ちょっとドラマなんかの挿入歌として使いたいようないい曲。なんとなく聴いていてハッピーになる(涙に染めて、なのに・・・)。
 この年の3月、僕は大学を卒業した。そして4月から社会人になった。前年の6月には、教職課程を取る為に行った中学校への教育実習の経験で、一度は教師の道を考えたこともあった。しかしその夏の教員採用試験の失敗から、再度(翌年に)受験をしても、合格する自信もなく、4回生の後半は気持ちを切り替え、就職活動で京都市内の企業を訪問することに没頭した。結果として学校法人の事務職への就職が決まった。その就職活動中の企業訪問で感じたのは、僕の卒業した文学部が、いかに就職に不利なのか、ということだった。「大学では何を勉強しました?」という面接担当者の質問に「歴史学ですが・・・」と答えるしかなく、そのリアクションとして「ホーッ、学者にでもなったらどうです」と皮肉を言われ、返す言葉のないいやな思いを何回かした。心で「経済学部とかやったらいいんちゅうんかい!!」「ここに来たのは就職を希望してるからにきまっとるやろ!!」と思いつつ、すごすごと帰り、不採用の通知を何度かもらったものだ。今思えばそれも懐かしい記憶ではあるが、なにかの間違いで、もしその企業に就職していたら、僕の人生どうなっていたのだろう、と思う今日この頃。
 そしてこの1979年の夏にはソニーのウォークマンが発売された。今のウォークマンに比べるとずいぶん大きなボディでずっしりとしていた。しかしステレオの音楽を街中で聴くことが出来る画期的な製品だった。僕はソニーのウォークマンを真似た製品を買った(値段の安いちゃちなものだった)。それでも十分満足していた。

カーリー・サイモン「うつろな愛 You're So Vain」

 カーリー・サイモンは1945年6月25日、ニューヨーク生まれ。「君の友達」で有名になったシンガー・ソング・ライターのジェームス・テイラーと結婚生活を送ったこともある(数年後に離婚)。1973年に発表した3作目のアルバム「ノー・シークレッツ」のシングルカットとして、この「うつろな愛」は全米ナンバーワンのヒットとなった。ベースのおどろおどろしいイントロから始まり、ギターのカッティング、ピアノなどが入り、けだるい感じのカーリー・サイモンのボーカルとなる。しっかりとした、少しラウドなベースとドラムスが、とても力強いサウンドを醸し出している。サビの「~♪You're So Vain~」のところは圧巻で、当時のカーリーの脂の乗りきった歌声が聴ける。そしてこの曲にはコーラス(というよりもサブ・ボーカル)として、あのローリング・ストーンズのミック・ジャガーが参加していることでも話題になった。ちなみにこの曲の収められているアルバム「ノー・シークレッツ」にはミック以外にも、ポール・マッカートニーやジェームス・テイラーなどのそうそうたるミュージシャンが顔をそろえている。

キャロル・キング「心の炎も消え」

 キャロル・キングの最高傑作のアルバムと言われている「つづれおり(Tapestry)」に収められている曲。彼女はもともとは作曲家として数々のヒット曲を書いていた。それがシンガー・ソング・ライターとして自らレコーディングするようになったのは、ビートルズの影響であると言われている。つまりビートルズはすべてを自分達で作り演奏するというスタイルであり、それに衝撃を受けたというのである。
 それまで一緒に数々のヒット作品を生み出してきたパートナーであるゲリー・ゴフィンと離婚し、ベースプレイヤーのチャールズ・ラーキーと新しい結婚生活を始めた頃にこのアルバムが出た。そして「心の炎も消え」は、その当時の彼女の偽らざる心境を歌ったものとされている。
「遅すぎる、心の炎が消えたのを私は隠すことが出来ない(要約)」という内容。
 僕は、このアルバムが出された1972年の頃(高校生時代)には、だるい曲だな、という程度の認識だったが、バンドでやるようになり、また歌い込むにつれ、なかなか渋い深みのある曲だと思うようになった。特にピアノのメリハリの利いたフレーズがイントロと全編を通して繰り返し流れているのが印象深い。またこのアルバムでアコースティックギターを担当しているのはジェームス・テイラーである。

ギルバート・オサリバン「アローン・アゲイン」

 ギルバート・オサリバンは、1946年にアイルランドで生まれる。ビートルズやキャロル・キングに影響を受けて作曲を始める。デモ・テープをレコード会社に送ったが封も切らずに送り返されてきたことに発奮し、単身ロンドンへ。そして1967年にデビューするも、当時のサイケデリックミュージックの時流に合わずまったく売れなかった。しかし1972年に、この「アローン・アゲイン」が大ヒット。ポール・マッカートニーをして「僕の後に続くアーティストはエルトン・ジョンとギルバート・オサリヴァンだ」と言わしめたほどであった。それほど才能を認められていた。「アローン・アゲイン」は、1972年、全米で6週連続ナンバーワンとなった。ピアノ主体の伴奏で、牧歌的なメロディは、聴くものの心を和ます。僕は知らないが、テレビのアニメ「めぞん一刻」の主題歌にもなったらしい。

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「光ある限り」

 この「光ある限り」の原題は「Long as I can see the light」 だったと思う。スローテンポでブルース色の強い曲だった。実はこの曲。「Looking out back my door」のB面だった。「Lookin~」はカントリー調でノリの良いCCRらしい曲なので、高校?当時はこちらを聴くつもりで買ったのであろう。その後、B面の良さがじわじわ分かってきて、どちらかと言うとB面ばかりを聴くようになったので印象が強く残ったのである。
 このレコード(中古品)を買ったのは四条寺町を下がる電化街の中にあった津田蓄音機店(「ツダチク」と呼ばれていた)という店で買った。その後ツダチクは河原町今出川の今出川通りに店を移し、大学時代は中古レコードを買うのによく利用した。そして現在は、河原町通り側に、またまた場所を移し、CDを中心とした店を開いている。ひとつのレコードから色々なことを想い出す(注・2011年3月時点で「ツダチク」は閉店した)。

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「雨を見たかい」

 ジョン・フォガティ率いるアメリカのロックバンドCreedence Clearwater Revival(略してCCR=シー・シー・アール)。チャラチャラした恋愛を歌ったものではない。テーマは天気(雨)だ。こんな内容の詞でも、アメリカではヒットチャートへ登場するということだ。しかし一方で、この歌詞には、1970年当時、泥沼化するベトナム戦争への反戦歌だという説があり、実際、放送禁止になったという。つまりこの雨というのは、アメリカ軍の撒き散らすナパーム弾のことらしい。たしかに「Coming down on a sunnyday」となれば、晴れた日に落ちてくる雨、ということになる。
 サイドギターのジャカジャーン~というストロークが印象的で、コードも簡単でノリの良い曲だ。日本のアーティストも桑田圭祐のクワタバンド、ずいぶん昔だがカップヌードルのCMソングに使われたイチローのカバー曲としても知られている。

グランド・ファンク・レイルロード「ハートブレイカー」

 1969年結成のハードロックバンド。彼らのアルバム「We're An American Band」の名の通り、アメリカンロックのパワフルでストレートなヒット曲が多い。バンドのメンバーは、ギターのマーク・ファーナー、ドラムスのドン・ブリューワー、ベースのメル・サッチャーという3人のシンプルな構成。しかしながら、ギターアンプを何台もステージバックに積み上げ(まるでアンプの壁)、そこから出される楽器の音に聴衆は興奮した。
 この「ハートブレイカー」は、ミディアムテンポの曲ではあるが、ハードロック特有のひずみを効かしたギターと激しいドラミングで、聴く者を魅了する。特に「heartbreaker~heartbreaker~」というマイナーコードのサビのところがハードな中のメロウな部分として、全体の曲構成の中で光っている。当時、アマチュアバンドはこぞってこの曲をコピーしていた。
 1971年に来日し、東京と大阪で公演した。この時、会場となった東京の後楽園球場は、どしゃぶりの雨と雷に見舞われたが、観客はずぶ濡れで、その大音響を堪能した。むしろ自然が演出した雷雨というロケーションは、彼等のステージをいっそう盛り上げることとなったし、今も語り草となっている。
 僕は当時、高校1年生だった。毎月は買わなかった(買えなかった)が、ときどき「ミュージックライフ」という月刊誌を買っていた。その雑誌に、この後楽園でのグランドファンクのコンサートの模様がグラビアページに掲載されていた。「すごいコンサートやったんやなー」と思ったし「行ってみたいなー」とも。演奏者も観客もずぶ濡れだった。しかし積み上げられたギターアンプの迫力は、当時、アンプなんかは1個で十分うるさいもの、という認識を持っていた僕にとっては、その音がどのような大音量なのだろうか、と大いに関心を持ったのである。
 ビートルズの東京公演もそうであったが、70年代前後のロックバンドのコンサート(ライブ)では、ボーカルはボーカルアンプ、ギターはギターアンプ、というように別々にセッティングされていた。したがって音のバランスなどは、それぞれがアンプのボリュームを上げたり下げたりして調節していた。今のようにPA(ピーエー:Pablic Address:大衆への広報システム=すべての楽器・ボーカルの音を一旦ミキシングコンソールへ入れ、そこで技術者がバランスを調節し、ふたたび大スピーカーへ送るシステム)が導入される前のことで、この後楽園球場でも、直にアンプの音を出していたはずである。楽器の大音量と雷の音、どんな音だったのだろう???

クリスティ「イエロー・リバー」

 ギター、ベース、ドラムスのシンプルな編成、3人組(Jeff Christie、Vic Elmes、Mike Blakley)のイギリスのグループ、クリスティの1970年のヒット曲。グループ名は、リーダーのジェフ・クリスティから命名したようだ。単調なメロディながら、軽快なリズムと伴奏により、聴いていて気持ちのいい曲である。
 高校生の時、吹奏楽部の女の子のアルト・サックスをメインにしたインストルメンタルなバンドをやっていた。そう言えばカッコ良く聞こえるが、実際は、簡単な楽譜(主旋律とコード、歌詞だけの楽譜)が掲載された音楽雑誌をもとに、アルト・サックスには、歌手が歌うメロディを吹いてもらい、ギターやベース・ドラムスは、適当にコードを間違えないように、リズムが狂わないように弾いている、というバンドだった(当時の我々には、コピーとかアレンジの概念は無かった)。いろいろな曲にチャレンジした中に、このクリスティの「イエロー・リバー」があった。ただし、この曲だけは、メロディをギターで弾くことになり(ギターの方が感じがよいだろうと)、僕がこのメロディにチャレンジすることとなった。もともとこの曲自体、メロディが単調なので、楽譜を見ながらなら、なんとか弾くことが出来た。ただし、この原曲、クリスティのは、曲の最後にしつこくアドリブを入れている(とても軽快、跳ねるようなリードギター)。普通、そんな付け足しのような部分、無視してもよかったのだが、この最後の部分がまたいい感じなのである。なのでこの部分は外せなかった。しかし雑誌などの楽譜にはその部分は掲載されていない。当然コードも分からなかった。今の時代なら、ヒットした曲の完全楽譜、全パートの楽譜などもあるのだろうが、当時、コピーをする、という概念もなかったし、どうすれば、耳で聴いた音を自分の演奏に出来るのか、まったく分からなかった。それで、なんとなく、それらしい音を見つけて適当に弾いたり、コードもたぶんこんなものだろう、という感じでやっていたのである。なんとも頼りないバンドの想い出である。ただこの曲の軽快なメロディは、今も僕の想い出の中に生きている。

クリフ・リチャード「コングラッチュレイションズ」

 「ダン・ダ・ダダダダ・ダン、♪コングラッチュレイション~」という歌いだしではじまる(ダン~のところはパーカッションというのかドラムス)。タイトル名からして目出度い曲だと思われるが、その曲調も、それなりに賑やかで祝福をしているかのような曲だ。クリフ・リチャードは、イギリスのポップ歌手。60年から70年にかけて活躍した。特に日本での人気はなかなかのものであった。
 僕はロックだのフォークだのとジャンルが言われる前から(小学校の高学年の頃から)洋楽には親しんできた。その音源の入手はラジオからであった。僕のそばには必ずそのトランジスタラジオがあった。家の手伝いをするときも、夜寝る前も、ほんとによく聴いていた。今のようにカセットテープやCDなどもない時代、くり返しよく聴くことでその曲を覚えることになる。この曲はクリフ・リチャードの初期のヒット曲でラジオでよく聴いた曲だった。
 それから時代は下り、僕は大学を卒業して、学生寮(男子寮)の寮監をしていた。その寮では朝の7時になったら必ず目覚ましがわりに全館放送で鳴る曲があったのだ。それがこのクリフ・リチャードの「コングラッチュレイション」であった。僕の前の寮監さんが選曲して目覚まし用に7時になったらタイマーで音楽がかかるようにしてくれていた。あの「ダダダ~」のところが安眠を破るのだ。朝起きるときに「おめでとう!!」というのもイマイチ意味不明だが、まあ景気の良い曲なので、今日も一日がはじまるんやな~、という感じでみんな起床していたのであろう。
 寮監をしていた年の12月8日、ジョン・レノンが凶弾に倒れた。僕はそのニュースを夜のニュースで知った。大変な事だと思ったが、何をすることも出来なかった。翌朝は早めに起きて朝の目覚まし用のカセットを取り出した。この日だけは、クリフの曲を流すわけにはいかなかった。「ジョンとヨーコのバラード」を流して一人追悼の意を表した。あの時の寮生たちの何人がその配慮を理解してくれていたのだろう。

クロスビー・スティルス&ナッシュ「ティーチ・ユア・チルドレン」

 1970年代、抜群のハーモニーと完成された楽曲の数々で注目を集めたフォーク・ロックのグループ。日本人で最初にこのバンドをコピー(カバー)したのは、ガロというグループ(「学生街の喫茶店」で有名)だったと記憶する。その後、何年かしてアルフィーもコピーしていた。その代表曲がこれだ。たしか『デジャブ』というアルバムにあった。時は映画、音楽が最高に盛り上がっていた。「いちご白書」「イージー・ライダー」なんかにもCS&N(あるいはCSN&Y)の曲が挿入されていた。

ケイト・ブッシュ「嵐ヶ丘」

 ケイト・ブッシュといえばこの「嵐ヶ丘」しか浮かばない。「嵐ヶ丘」しか、と書いたがこの一曲に強烈なインパクトがありすぎて、他にもいろいろ曲を歌っているのに、ケイトと言えばこの曲、というほどの代表曲ではないか。明石家さんまの司会する「恋のからさわぎ」に使われているので、たいていの人は聴いたことがある。僕はこの曲が出たとき(1977年)、なんと奇妙な曲だ、と思った。まるでミュージカルとか、おとぎ話を映画化して、そのサウンド・トラックとして作ったのではないか、と思った。その歌声は、これまたキュートというのか小悪魔的というのか、と思っていたら、この曲の入っているケイト・ブッシュのファースト・アルバムが「天使と小悪魔」なのだ。なんとぴったりのタイトルだろう。ルックスもそんな感じだ。
 この曲は、エミリー・ブロンテの小説「嵐ヶ丘」をモチーフにして作曲しただけあって、ドラマチックな楽曲である。ピアノの最高音部分(堅いきんきんの音)のあと、ケイトのいきなりの歌いだしから入る。ここからして映画的な導入方法ではないか(メロディというよりセリフを話しているような歌い方)。ちょっと身構える。これから何かいやなことが起きるような予感。そして続いてそれを否定するようなゆったりとしたサビの叙情的なメロディライン。曲の後半は、この叙情的なメロディをケイトのバラード(アドリブっぽい)とギターソロが絡む。映画「ハリーポッター」にでも使えばぴったりなのではないだろうか。

 デビュー以降、けっこうな枚数のアルバムを出している。音楽評論家、渋谷陽一の解説によると「彼女はイギリスのお嬢さんで、財力のある家庭に育ち、大きな才能をもち、かつまた人生の暗くつらい局面を生きぬくことを強いられることなく、自らの観念性、少女性を温室の中で純粋培養されていく。~」ということが、その音楽性の基盤になっていると。そして日本人アーティストとして共通するキャラクターを持っているのが中島みゆき、だと。・・・そうかなぁ?

ザ・コアーズ「ランナウェイ」

 以前、休日の朝、家で作業をしながらCSの音楽番組を流していた(映像を見るというより音楽を聴くという目的で)。洋楽のビデオ・クリップの特集で、朝の番組らしくおとなしめの曲が流れていた。なにげなく聴いていると、うん?と思うほどの美しいメロディが流れてきた。女性が3人(そのうちの一人はヴァイオリン)と男性1人のグループで、しかもその女性3人とも美人ぞろい(僕は美人アーティストにめっぽう弱い)。そしてこの曲、よくラジオで聴くな、と思った(いやCMか・・・後でわかったことだがノエビア化粧品のCMに使われていたとか、どうりで・・・)。ビデオ・クリップの最後にクレジットが出るので、最近とんと視力が弱ってきた僕は、思わずテレビの前に駆け寄った。
 ザ・コアーズ(The Corrs)「ランナウェイ」という曲だった。メンバーは、Andrea Corr、 Caroline Corr、 Sharon Corr、 Jim Corrの4人。みんな「Corrさん」、つまり兄妹で「The Corrs」となっているようだ。アイルランド出身で1995年にデビュー。楽器担当は、兄のジム・コアーがギターとキーボード担当、長女のシャロンがヴァイオリン担当、次女のキャロラインがドラムス担当、三女アンドレアがヴォーカルとホイッスル担当。伝統的なケルト音楽をミックスしたアイリッシュ・ミュージック・グループだということである。長い歴史のある「MTVアンプラグド」というテレビ番組の最終回を飾った(つまり最後を務めるにふさわしいグループとして白羽の矢が当たったという)ことで、話題になった。
 コアーズ兄妹の故郷は、アイルランドの首都ダブリンから80キロメートルほど北にある海岸沿いのダンドークという町だという。ここにはアイルランドの名産黒ビール(ギネス・ビール)の工場があり、自然豊かな土地のようだ。ここで音楽好きな両親によって育てられたのである。アイルランドは、U2やエンヤといった個性的かつ抒情的なサウンドを出すミュージシャンを送り出した土地柄であり、国民的にも音楽好きな民族として知られている。
 1995年に出されたザ・コアーズのファーストアルバム『遥かなる想い』は、世界で700万枚のセールスを記録したという。続いて『トーク・オン・コーナーズ』はイギリスだけで300万枚の売り上げがあった。2002年には、イギリスのエリザベス女王在位50周年記念コンサートでポール・マッカートニーやエリック・クラプトンらとともに、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を披露したという。
 このグループは、全員が兄妹という点もユニークだが、兄妹ならではのハーモニーの相性の良さ、メロディラインの繊細さで群を抜いている(ケルト音楽を~とされているが、あまり民族音楽という印象は無い、むしろ親しみやすいメロディは万人に好感を持たれるものと思える)。しかも美人姉妹ときている。僕はこのビデオ・クリップを見た日の午後、ブック・オフ(本とCDのリサイクル・ショップ)に置いてないものか、出かけていったのである。果たして、そのCDは「C」の棚にあった。『ベスト・オブ・コアーズ』と題した輸入盤であったが、新譜に比べれば安い。迷わず購入。輸入盤にしては、付属のジャケット、クレジットに加えて写真などもたくさん掲載されている。それからしばらくはこの曲を聴き続けている。聴いていると心が癒される感じである。  

ジェイムズ・コットン・バンド「コットン・ブギー」

ジェイムズ・コットン・バンド「コットン・ブギー」00

 京都のライブハウスといえば、いまでこそJAZZ専門のところからロック・フォーク系までさまざまあるが、1980年前後は、ブルースバンドが常連で出演していた「拾得(じっとく)」「磔磔(たくたく)」「サーカス・サーカス」の3つが基本だった。前の2つは酒蔵を改造して店にしているし、サーカスはビルの地下にある店だった。そんな店構えだったので、やはり京都といえば「拾得」と「磔磔」である。
 「拾得」は丸太町智恵光院通りの近くにあり、少し繁華街からは離れている。主にアマチュアバンドの登竜門、といった趣があったが、それはここのマスター、テリーさんの志向によるところが大きい。ただブルース系のバンドは、プロでもよく出演していた。
 「磔磔」は四条烏丸のビジネス街の近くにある。立地条件の良さを反映して、けっこうメジャーなアーティストが来る。そして「○○~Live at TAKUTAKU」というライブ盤も多い。また本場アメリカのブルースマンが日本で公演をするときは、東京、というビッグな都市ではなく「Kyoto,takutaku」と指名してくるという。それほどブルースマンに知れたところなのである。
 そんな「磔磔」で1985年12月、ファンク・ブルースと称されたブルース・ハープ(=ハーモニカ)の名手、ジェイムス・コットンのライブがあった。こういうビッグなアーティストの時は、店内は少しのテーブル席と畳のスペース以外、すべてイス席になり、さらにイス席の後ろは立ち見席となる。200人くらい入れば、かなり満杯という感じである。「磔磔」の控え室は酒蔵を改造した店の2階にある。そこからステージへ行くには後ろの方の階段を下りて、目一杯になった客席をかき分けて進むことになる。なので、はじめはなんとかステージまで行くことが出来ても、ライブが盛り上がってエンディングになっても客が控え室へ帰してくれない、といったことや、一旦なんとか戻ってもアンコールでステージまで戻ることが出来ない、といったこともしょっちゅうあった。この時のジェイムス・コットンは、ブギ―のリズム、アップテンポな曲をたくさん披露してくれて、聴いているだけで体が上下に揺れ、踊りたくなってきたものだ。

                               つづく・・・・・・★た行~

 

 

 

 

 

 

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