はじめに
ここに「畑野のむかしばなし」という手作りの文集があります。発行は、昭和51(1976)年1月です。今から40年前に作られたものです。本文は14頁、謄写版で印刷したもの(俗に言う「ガリバン刷り」)に、湿式の複写機で印刷した表紙を付けて、ホチキスで止めた簡単なものです。表紙の中央に、茅葺きの民家と山々の絵が描かれており、下段に「畑野小学校、4年生、5年生」とあります。当時の小学校での学習活動の一環として、教員の指導のもとに、地元のむかしばなしを、おじいさんなどから聞き取りし、冊子にまとめたものです。本文「あとがき」には、次のような文が載せられています。
「半国山や剣尾山のいただきから吹きよせる風にのって、雪が舞い落ちる夜に、囲炉裏を囲んで、おじいさんやおばあさんから、むかしばなしを聞く、畑野に残るむかしばなしを聞く。そのようなことを頭にうかべるだけでも、なにかほのぼのとしたあたたかさを感じます。みなさんの家には、もう、囲炉裏などはなくなっていますが、わたしたちが生まれ、育っている畑野は、長い長い歴史をもっているのです。むかしの人たちのくらしを考えるときに、伝説や民話などは、その時代の人々のにおいを運んでくれます。国語の学習で、民話や伝説を勉強するなかで、わたしたち畑野にも、民話や伝説のようなむかしばなしがないものだろうかと考え、冬休みの間から、おじいさんやおばあさん、おとうさんやおかあさんから教えてもらったり、近くのお年寄りから聞いたりしました。それが、この畑野のむかしばなしなのです。これらのむかしばなしは、みなさんが大きくなったときに、みなさんに続く人たちに伝えていかねばならないでしょう。これらの畑野のむかしばなしは、本当に畑野の財産だといえます。」
現在は、畑野町といえば、亀岡市内でも、大阪府や兵庫県のベッドタウンとして、人口もそこそこ多い町ですが、40年前のこの地は、細々と農業・林業を営む村落地帯であり、小学校の生徒数も、全体で数十人といった規模でした。この冊子の「あとがき」の文章は、郷土の古い話を貴重な財産として守り受け継いでいく、といった趣旨で描かれています。おそらく担任の先生が書かれたものでしょう。こども達とお年寄りとの聞き取りの様子をほのぼのとしたタッチで綴られていることから、地域の文化に対して深い愛情を持っておられる事が見て取れます。
私は、この「畑野のむかしばなし」という冊子を、これが作成されたであろう昭和51年の時点で手に入れたのではありません。この冊子を作りあげた当時の畑野小学校の5年生が、小学校を卒業し、中学校へ入学して2年生となった昭和53年6月でした。同じ中学校の卒業生であるこの私が、大学で教職課程を取っていて、教育実習生としてここで社会科を教えることとなり、件(くだん)の中学2年生と出会い、貰うこととなったのです。
大学生だった私は、教育実習生として中学校社会、特に専攻の日本史を重点的に授業をさせてもらいました。昔の記憶なので、ほとんど何をやったのか覚えていないのですが、おそらく教科書どおりの内容は簡単に済ませて、後は「歴史」というのは・・・・、といったようなことを得々と話していたはずです。大学3回生の時に、民俗学研究会に籍を置き、民俗調査に参加したり、民俗学関係の研究会やアカデミックな雰囲気の集まりに触れはじめていた頃の私です、「何年に何が」式の事件史、武士や貴族階級だけの歴史観(歴史教育)に否定的な意見を持っていたと思います。そんなことから、この時の教育実習でも、特に民俗学で解明された身近な事象を、ここぞとばかりに披瀝していたことでしょう。そんな話を聞かされた、つかの間の「教え子」である中学生が、自分たちが小学校時代に編集した「畑野のむかしばなし」のことを思い出し、つかの間の「先生」にプレゼントしようとしたのです。
時は流れて40数年後、あのころの少年少女達は、今は50代に入った頃でしょう。父親母親になって(人によってはおじいちゃんおばあちゃんになって)、畑野のむかしばなしを、自分達の子供(孫)へ話し聞かせているのでしょうか。担任の先生の思いは、時を越え伝わっているのでしょうか。
このホームページに、この内容を掲載しようと考えたのは、限られた地域の、ささやかな口承文化の一端、しかも内容を知る人も少ない、この「畑野町のむかしばなし」の存在を、ぜひとも多くの人に知ってほしい、という願いから、なのです。以下に掲載する話は、畑野に住んでいなくても興味をそそられる話ばかりです。地名の由来はもとより、不思議なお坊さんの話など、わくわくするような展開を見せてくれる物語ではないでしょうか。40年前に、この小学校を舞台にして、小学校の国語という授業の中で、熱心な先生と子供たちが学び取ったふるさとの財産、それを守っていこうとしていた心を、この場(ホームページ)を使って表現してみたいと考えました。
私の大学時代の卒業論文は、別ページに掲載しているとおり「亥の子行事について」というタイトルでした。そしてフィールドは、この畑野町です。そこで行なわれていた亥の子行事をテーマとした論文でした。この行事は、旧暦10月(新暦で11月中旬)に行われる稲の豊作を祈願する子供が主体となった行事です。ちょうど卒業論文を仕上げにかかっていた11月に、論文の資料として写真を撮りにいった際、同年6月に教育実習で出会い、この冊子を私に渡してくれた中学生達も混じっていました。私自身も小学生の頃に亥の子行事をした経験を持っているのですが、昭和50年代でこの行事が残存しているのは、亀岡市内においてここ畑野町のみでした。そんな自身の学生時代の思い出、縁の地、畑野町の「むかしばなし」を多くの人に知ってもらい、故郷(ふるさと)を知る一助となれば幸いです。
平成24年3月
太田貴久男
ホームページ掲載その後
ホームページに掲載して5年が経過した平成29年3月、私は長らく勤めていた職場を離れることとなりました。4月からは、趣味と野良仕事に明け暮れていましたが、同時に、その前年12月に拝命した地元の民生委員の活動にも、まじめに取り組むことになりました。そんななか、私が所属している民生委員協議会・西部地区の中の、件の畑野町で同じ委員のYさんから、ホームページで「畑野町の昔話」を公開されているのは太田という方のようですが、それは、太田さん(私を指さし)本人のことですか?、と聞かれたのです。Yさんが言われるには、私がホームページにアップした畑野の昔話のデータをプリントして、畑野小学校での読み聞かせボランティアの素材として使っておられるのだとか。いやはやインターネットの世界はすごいものです、恐らく、畑野町、などのワードで検索して見つけられたものと推測します。まったく予想もしなかった方の手に渡り、私が望んでいたような活用がなされ、同時に、その地元の子どもたちに受け継がれようとしている・・・、ということが分かり、望外の喜び、ぜひとも読み聞かせなり、歴史の学習にお使いください、と伝えました。私が民生委員をしていなければ、この畑野町の昔話が活用されていることなど、知る由がなかったわけで、本当に驚くばかりでした。
その後、残念なことにYさんはご病気で亡くなられました(読み聞かせ活動がその後続いているのかは聞いておりません)。この場を借りて深く哀悼の意を表します。そして私のホームページを見つけてくれてありがとうございました、と伝えたいです。
その後、私のほうといえば、民生委員の任期3年が終わらぬうちに、今度は地元の自治会長をやるようになり、掛け持ちの1年と、あとの1年はコロナ禍で、自粛や延期やでめまぐるしい日々、2年間でした。そしてこの3月で退任の運びとなり、4月からは、またまた趣味と野良仕事に明け暮れております。そして時間に余裕が出来たことで、10年以上に亘って運用してきた、このホームページについても、不具合を修正したり、新たなページを設けたりしております。
そして繰り返しになります。
あのころの少年少女達(私のつかの間の教え子)は、今は60歳あたりでしょう。父親母親になって(人によってはおじいちゃんおばあちゃんになって)、畑野のむかしばなしを、自分達の子供(孫)へ話し聞かせているのでしょうか。この文集をまとめられた担任の先生の思いは、時を越え伝わっているのでしょうか。さらに、このページの存在に気付いた「今」の方々にも伝わることを期待するところです。
令和3年5月28日
太田貴久男
太田先生 こんにちは!!
お元気そうで・・・・
ざんねん ナーンチャッテ。
この「むかしばなし」の本を
畑野中2全員から先生に
プレゼントします。
= 先生とお会いできるように=
↑みんなのねがい
また育中へ来て下され~~~~
(「育中」とは「育親中学校」の略称。)
むかしむかし、土ガ畑の観音堂に、小さな金の観音さまがまつってありました。
土ガ畑の村人たちは、「ありがたい、ありがたい」と言って、毎日のように、おまいりをしておりました。それで、観音堂には、おまいりにくる人でたえませんでした。
ところがある夜、毎日のようにおまいりをしていた、もへいという人の夢まくらに、観音さまが立って、「もへいよ、さらばじゃ、さらばじゃ」と言って、手をふって消えていきました。
あくる朝、そのもへいが、「ゆうべは不思議な夢をみたもんだ」と言って、観音さまにおまいりにいきました。
するとどうでしょう。きのうまであった金の観音さまが、かげも形もなくなっていたのです。もへいは、「ゆうべみた夢は、正夢だ。金の観音さまが、わたしに伝えてくださったにちがいない」と、びっくりしました。
その観音さまは、土ガ畑のご詠歌にもうたわれている有名な観音さまでしたので、村の人たちはたいそうおしがりました。
しかし、村の人々は、「金の観音さまは、気のつよい方なので、きっと、どこかで元気にしておられるにちがいない」と言って、金の観音さまのかわりに、木の観音さまをおまつりして年おいた人々がときどきおまいりに来ておられたとのことです。
後になって、その金の観音さまが、若森という所にまつってあるそうですが、証拠のようなものがなくて、がっかりしてひきさがったそうです。
しかし、土ガ畑のご詠歌として、今でも、金の観音さまのことを思って、したっているそうです。
土ガ畑の観音さまのご詠歌
「 いくちよの かわらぬ神は ちかいにて
あおぎてここに 土ガ畑の村 」
☆土ガ畑の観音堂---現在の土ガ畑の公民館が観音堂と思われる。今も、木の観音さまがまつってある。若森は、園部町若森のことであり、観音堂があり、重要文化財に指定された観音さまがある。〔記録:T.S〕
むかしむかし、剣尾山にりっぱなお寺がありました。
そのお寺に、ひとりのお坊さんがすんでいました。お坊さんには美しいお嫁さんがありました。
お坊さんは、「山の中になど、女をおいていてはあぶない。人家のある里に住まわせよう」
と思って、今の土ガ畑に、お堂をつくり、お嫁さんを住まわせ、用心のために、金の観音さんをまつったのでありました。
それで、その里に観音堂ができたので、その里が、「堂がはた」といわれ、堂がはたが、今の、土ガ畑に変わったといわれたのでした。〔記録:T.S〕
むかし、がんぜき峠には、大きな沼がありました。その沼には、たくさんの葦がはえていました。また沼には、たくさんの雁が住んでいたそうです。
あるとき、ひとりの侍が、がんぜき峠を、登ってきました。
ところが、その侍を殺そうとして、悪者が葦の茂みにかくれて、まちぶせをしていました。しかし、たくさんの雁がさわぎだしてしまったので、侍に気づかれて、反対に、悪者はその侍に殺されてしまったそうです。
そのように、がんぜき峠には、たくさんの雁が住んでいたようです。だから、「がんぜき」と呼んだのかもしれません。
今では、がんぜき峠をいろいろな字で書きますが、むかしは、雁ぜき峠とかいったのでしょう。〔記録:Y.N〕
千ガ畑のくるび谷の白倉(しらくら)という山に、大きな岩がたくさんあつまったところがあります。 そこに、長さ十メートル、太さ三十センチメートルもあり、首に白い輪のある大蛇の夫婦が住んでいたそうです。
村人が、くるび谷の白倉で、仕事をしていると、上から砂がこぼれてきて、なにか大きなものを引っぱるような音がするので、上の方を見ると、大蛇が岩わたりをしようとしていました。それを見た村人は、びっくりして、とんで帰りました。
村人は、そのことを近所の人に話すと、村人たちは、「もう一度、それを見にいこう」ということになり、てっぽうや刃物を持って、おもしろ半分に出かけました。
行ってみると、大蛇は、もういません。けれどもその岩の上に、光ったぬるぬるするものがついており、まわりの草がたおれていました。村人たちは、それを見て、気もち悪くなって、家へとんで帰ったそうです。
☆くるび谷---小学校から、土ガ畑へ約1.5キロほど行った左側の山がくるび谷であり、現在は、造成工事がなされて家がたちはじめている。〔記録:Y.R〕
むかし、広野のおく山に金山(かなやま)という険しい岩山がありました。
その山から、金がとれたそうです。その山に、横あなやたてあなであなをたくさん堀り、金をとりました。金のたくさんでるときには、明智光秀という侍もやってきて、金を掘り起こしたそうです。
その金山の東の谷に、金やしきというところがあって、そこまで金を含んだ石を運んできて、ふいごで火をおこして、金を含んだ石をとかし、金を取り出したそうです。
また金やしきには、金を取り出したときに使った「金(かな)つぼ」という石にあなのあいた道具や、「金くそ」というものも残っています。
☆金山(かなやま)---小学校から土ガ畑の方へ、約2キロメートル行った右側の山一帯が金山というところで、現在も地名を金山という。今も、金つぼや金くそというものが残っているそうである。土ガ畑へ行く道に、今、金山橋という橋が架かっている。
〔記録:Y.R〕
むかしむかし、広野にりっぱなお城がありました。しかし織田信長というお殿様の命令をうけた明智光秀という侍が、丹波の国を治めるために、いままで丹波の国を治めていた侍達といくさを行いました。そのときに、この広野にも、明智光秀というさむらいはやってきて、いくさを起こしました。そのいくさは、たいへんものすごい戦いで、たくさんの人が死んだということです。
明智光秀は、その戦いに勝って、広野にあったお城に、火をつけて燃やしてしまいました。それから光秀は、今の亀岡に城を築いて丹波の国を治めたのです。
広野にあったお城は、今、忠魂碑が立っている山のところで、今も、城山と呼んでいます。
〔記録:H.M〕
今の広野のあたりは、むかし広い野原であったということです。それで、広い野原から、広野と呼ぶようになったということです。 また、宿野の方は「西ごう」と呼び、森上のあたりを「ひねのしょう」、それより東を「東ごう」と呼んだそうです。
そのころは、今の畑野小学校のある上の山一帯を「うたがき山」と言ったそうです。
〔記録:H.M〕
むかしむかし、千ガ畑のきざえ門という人が、今の湯ノ花へ炭を売りに行っての帰りに、身なりはみすぼらしいけれども、なにかしら、学のありそうな、品のあるお坊さんに出会いました。
お坊さんは、きざえ門に、「あなたは、どこへ帰りなさるのですか」と訊ねてきました。きざえ門は、「わたしは、千ガ畑へ帰るのでございます」と答えました。お坊さんは、「わたしは、悪者に追われていて、行く所がありません」と言いました。きざえ門は、「わたしの村へいらっしゃい。人情ゆたかで、食べるものもたくさんあるし、あなたのような方に、いろいろなことを教えてほしいので、ぜひいらっしゃい」と言って、一緒に帰ることになりました。
そして、いろいろなお話をしながら、西加舎村まで帰ってきて、加舎神社でいっぷくをしました。するとどうでしょう、今まで静かだった社が、ガタガタ震えだしました。
お坊さんは、急に立ち上がって、神殿の方に向かって、「ゆるす」とひとこと言われました。すると、今まで震えていた社が一度に止まってしまいました。それを見て、きざえ門は思いました。
「この方は、普通のお坊さんではない」
きざえ門は、そのお坊さんをつれて帰って、家でご飯を食べさせました。それから、お坊さんは、毎日、毎日、何かをしに山へ行っていました。
きざえ門は、気になって、ある日、そっと後をつけてみました。するとどうでしょう、お坊さんは、座禅を組んで、大きな岩を見つめていました。
その場所が、今の大梅山法常寺のあるところです。
このお坊さんこそ、開山一糸和尚さんだったのです。〔記録:Y.R〕
今から1200年前、中国の唐の時代に、寧波という所に、大梅山という、たいへん深い山があった。そこは人の住まぬさびしい所であり、人が訪れることもなかった。
その大梅山に、法常という名前のえらいお坊さんが住んでいた。そのお坊さんは、その山の中で、ただ一人、蓮の葉を着物にして、身に付け、木の実を食べ物にして、生活していた。そのときの中国の天子が、そのえらいお坊さんをお召しになって立派なお寺を建てられた。
今から350年ぐらい前に、この千ガ畑へ一糸和尚というえらいお坊さんがやってこられて、魔谷に、ただ一人住んでおられた。
このお坊さんは、京都のお公家さんの生まれで、たいへん徳の高い立派な人であった。なんべんもなんべんも、後水尾天皇が、京の都へ出てくるように言われたが、この山奥が一番よろしいと言って行かなかった。
そこで、天皇は、一糸和尚が中国の法常という立派なお坊さんによく似ているので、一糸和尚のために、千ガ畑に、お寺を建てられ寺の名を「大梅山、法常寺」と付けられた、ということである。〔記録:N.K〕
今の千ガ畑は、昔は丹波の国、千箇畠村と書いたそうである。この字のとおり、千ガ畑には、畠が千ぐらいあったと言われており、千箇畠が千ガ畑と変わっていったと言われている。
〔記録:N.K〕
注(本文における著作権等の問題について:太田の見解)
著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(2条1項1号)と著作権法で定義されています。一方、昔話や民話はパブリックドメイン(公共財産)であるという解釈が一般的です。上記の「畑野町のむかしばなし」は、当時の小学生が、お年寄りなどから聞き取りして、文章に書き記したもので、見方によれば、部分的に「創作的に表現した作品」といえないこともありません。ただし最も創作性が発揮されている部分は、昔から伝承された物語のストーリー性であり、お年寄りの話を、当該の小学生が創作的に表現するのも限界があると思います。したがって、ここに掲載した内容については、多くの方々に、この存在を知ってもらうことを目的とし、またこれらの内容が一般に販売されているものでもなく、著しく権利を侵害することはないと判断いたしました。ただし(原本の)本文中には、個々の話の最後に聞き取りした方(当時の小学生)の名前が記されています。その箇所については、プライバシーの観点からイニシャルにしています。