民俗学研究会の歩み(第1期・民俗学研究会)
昭和52年4月 伊藤唯真ゼミ(卒論ゼミ)が母体となり発足。
同年4月 研究会発足のPRを竹田聴洲先生が「民俗学概論」の講義で言う。
当時3回生の太田も竹田先生のPRで伊藤研究室へ。
竹田先生はその年は同志社大学の教員でした。
同志社大学の学生に八木透先生も居られました(当時4回生)。
同年7月 滋賀県栗太郡栗東町観音寺で総合的な民俗調査実施。
同年12月 関西民俗学研究会年会にて調査報告(口頭及び模造紙の図表)。
※研究室にて上記の発表資料を作成していた際、既に深夜となってい
ました(当時は研究室に泊ることも出来ました!)。もう誰も居な
いだろうと思っていたら、森鹿三先生(東洋史)が研究室から出て
こられて、我々の資料を見て「がんばりなさい」と当時高級ウィス
キーのサントリーオールド新品をぽーんと置いて帰られました。
後で聞きましたが森先生は民俗学にも非常に造詣の深い方であった
ことがわかり、冷や汗ものでした。懐かしい思い出です。
昭和53年2月 中島誠一先生のお手伝いで、滋賀県緊急民俗分布調査に参加。
滋賀県内一円(五個荘町・能登川町・近江今津 他)。
この調査は民俗分布地図としてまとめられています。
昭和53年4月 竹田聴洲先生が佛教大学に着任。
当時4回生になった太田は予定どおり竹田ゼミへ。
その年の3月に同志社大を卒業された八木先生は佛大大学院へ。
同年7月 鳥取県日野郡日南町多里にて民俗調査。
多里に行くには京都駅23時台に発車する山陰号(各停)で米子へ。
早朝の米子から伯備線で日南駅、そこから路線バスで多里という行
程。
※夜行電車で米子に着くころには朝になっていました。
京都駅を出発して狭い座席で寝ることになります。通路や座席の
隙間に新聞紙を敷いて寝ることもありました。
そして目がさめると目の前に通学で乗っているだろう女子高生が
笑っている姿がありました。
恥ずかしくもあり、懐かしい思い出です。
当時会長をしていた太田は年中行事を担当。
昭和53年11月 京都護王神社「亥子祭」に参加
行列に人手が無いということで祭に参加しました。
この時の経験(写真)は卒論にも活用しました。
昭和54年4月 太田は大学職員に。
中島誠一先生「タタラをめぐる歴史と民俗」『鷹陵史学』に掲載。
同年8月 鳥取県日野郡日南町多里にて補充調査(報告書刊行に向けて)。
同年12月 佛教大学民俗学研究会『民俗志林』第1号刊行。
巻頭言に竹田聴洲先生<創刊の言葉>「志の林」の樹苗
「今日芽生えた樹苗が美林に育つことを熱望」との激励文でした。
民俗志林 第1号
鳥取県日野郡日南町多里地域
夏季民俗調査報告書(1)
1979年12月9日 初版発行
佛教大学民俗学研究会
昭和55年4月 中島誠一先生が平安博物館(現在「京都文化博物館」)に。
民俗学研究会OB会発足
5月 「年中行事考」太田
6月 「民家」井尻
7月 「民俗誌の在り方」中島
9月 佛教大学民俗学研究会『民俗志林』第2号刊行。
主要なメンバーが卒業し、また研究の指導をしていただいていた中島
先生が転職され、研究会の活動は下火になりました。
この2号をもって初期の民俗学研究会の一つの区切りとなっています。
民俗志林 第2号
鳥取県日野郡日南町多里地域
夏季民俗調査報告書(2)
1980年9月5日 発行
佛教大学民俗学研究会
民俗学研究会の歩み(第2期・民俗学研究会)
昭和56年以降、大学内の課外活動団体(無所属公認団体)として、民俗学研究会は活動を続けることとなります。ただし部員数も少なく、活動場所にも制約があり、学術書の輪読会や民俗行事の見学会などを定期的に行う程度でした。
昭和62年~ 佛教大学歴史研究所の助手として、大学に戻って来られた八木透先生(注・その後、専任講師・助教授に昇進され、現在は、佛教大学教授になられております)は、同時期に在籍していた大学院生らとともに、学部生を勧誘し、民俗学研究会を盛り上げ、かつての民俗調査などを4年ごとのサイクルで行ない、定期的に調査報告書を刊行されています。(・・・現在に至る)
民俗志林 第3号
京都府舞鶴市成生総合調査報告
昭和63年4月15日発行
民俗志林 第4号
福井県大飯郡高浜町上瀬総合調査報告
平成3年8月31日発行
民俗志林 第5号
京都府天田郡三和町大原総合調査報告
平成6年11月1日発行
民俗志林 第6号
奈良県吉野郡黒滝村赤滝地区総合民俗調査報告
平成11年3月1日発行
民俗志林 第7号
兵庫県宍粟郡千種町西河内総合民俗調査報告書
平成21年10月20日
民俗志林 第8号
京都府福知山市大江町佛性寺総合民俗調査報告書
平成30年2月15日